2008-04-21 Mon
当ブログでは、いままで「どうするの?」という興味を抱いた項目について、
「こうすべきだ!」という意見や「こうしてはどうか?」という提案を書いてきました。
この★願望小説(未来のお伽噺)★という大項目は、「近未来」の飯能を
「願望」(妄想?)で書いていくものです。
いままでのような意見や提案ではなく、「小説」というスタイルで書いていきますが、「何が小説なのか?」がよく判っていない私が、生まれて初めて書く「小説」なので、「小説」にはなっていないかもしれません。
<大人のための童話>か<未来のお伽噺>としておつきあい下さい。
中項目 には、現時点では下記の9つを準備しています。
(と言っても、最後まで書けるかどうかは判りませんが・・・・)
⇒ 狭山茶市誕生秘話
⇒ 多彩な市内見学ツアー
⇒ 初代市長へのインタビュー
⇒ 株式会社市役所代行
⇒ 市長主導の市議会改革
⇒ 森林文化都市大学公園
⇒ 山林転換茶畑開拓団
⇒ 横田空港発狭山茶便
⇒ 地域サイト365
2008-04-21 Mon
(蛇足ですが、これはフィクションです!)
狭山茶市は、それまでの入間市、飯能市、日高市と青梅市の一部が合併して、
20B1年1月1日に誕生しました。
実は、この<狭山茶市>という商品名のような市名は、隣接している狭山市が、この合併に参加しなかったから実現したようなものなのです。
もし、この合併に狭山市が参加し、その狭山市の主導で行われていたら、新市名はそのまま<狭山市>が引き継がれたかもしれません。
なぜなら、<狭山茶>は、生産量のわりには知名度が高いからです。対等合併だからといって市名から「狭山」を外すのは、この高い知名度を捨ててしまうことになるからです。
この合併の前までは、日本中の多くの人たちは、「狭山茶の生産地は狭山市だ」と思っていました。同じ埼玉県内の他市の住民の間でも、そう思っている人が多かったのです。
しかし、狭山茶の生産地は、狭山市だけではなく、入間市、日高市、飯能市など広い範囲に渡っているのです。
その中でも、入間市は、<お茶の博物館>や県の茶業生産試験場などが昔から在ったように、そこが狭山茶の主力生産地だったのです。
だから、入間市が狭山市に合併を持ちかけたときは、新市名として「入間」を残すことにこだわらずに<狭山市>を残すことを自ら申し入れたのです。
ところが、狭山市は2005年1月に行われた住民投票で、入間市と合併を否決したのです。
それ以来、入間市で広域合併を推進してきた人たちの間では
「次の合併相手には飯能市や日高市しかない!」
「その時は新市名を狭山茶市にしてしまうおう!」
という思いが根強くなっていったのです。
現在、狭山茶市で副市長をしている杉山満は、入間市と狭山市との合併協議会が解散したときは入間市役所の課長でしたが、この杉山が密かに推進してきた<狭山茶市実現計画>が、そもそも、狭山茶市誕生の原動力になったのです。 (つづく)
狭山茶市は、それまでの入間市、飯能市、日高市と青梅市の一部が合併して、
20B1年1月1日に誕生しました。
実は、この<狭山茶市>という商品名のような市名は、隣接している狭山市が、この合併に参加しなかったから実現したようなものなのです。
もし、この合併に狭山市が参加し、その狭山市の主導で行われていたら、新市名はそのまま<狭山市>が引き継がれたかもしれません。
なぜなら、<狭山茶>は、生産量のわりには知名度が高いからです。対等合併だからといって市名から「狭山」を外すのは、この高い知名度を捨ててしまうことになるからです。
この合併の前までは、日本中の多くの人たちは、「狭山茶の生産地は狭山市だ」と思っていました。同じ埼玉県内の他市の住民の間でも、そう思っている人が多かったのです。
しかし、狭山茶の生産地は、狭山市だけではなく、入間市、日高市、飯能市など広い範囲に渡っているのです。
その中でも、入間市は、<お茶の博物館>や県の茶業生産試験場などが昔から在ったように、そこが狭山茶の主力生産地だったのです。
だから、入間市が狭山市に合併を持ちかけたときは、新市名として「入間」を残すことにこだわらずに<狭山市>を残すことを自ら申し入れたのです。
ところが、狭山市は2005年1月に行われた住民投票で、入間市と合併を否決したのです。
それ以来、入間市で広域合併を推進してきた人たちの間では
「次の合併相手には飯能市や日高市しかない!」
「その時は新市名を狭山茶市にしてしまうおう!」
という思いが根強くなっていったのです。
現在、狭山茶市で副市長をしている杉山満は、入間市と狭山市との合併協議会が解散したときは入間市役所の課長でしたが、この杉山が密かに推進してきた<狭山茶市実現計画>が、そもそも、狭山茶市誕生の原動力になったのです。 (つづく)
2008-04-22 Tue
(余計な説明ですが、これはフィクションです!)
入間市役所の杉山満課長が、その胸に秘めた<狭山茶市実現計画>を最初に打ち明けた相手は、飯能市役所で係長をしていた川村正人でした。
二人は飯能高校の同級生で、それぞれ市役所の職員になる前は一般企業で働いた経験を持っているという共通項があったのです。
いま、その川村は狭山茶市の市議会議員になっています。
杉山が川村に持ちかけた<計画>とは、
「二人で入間市と飯能市の合併を5年以内に実現させよう!」
「まず実現のための戦略と戦術を二人で徹底的に練り上げよう!」
というものだったのです。
もちろん、杉山には「5年以内に狭山茶市を実現させるための巧妙な戦略も、具体的な戦術もすでに考えていたのですが、最初はそれを自分からは言わないのが組織の中での立ち回りがうまい杉山の得意技なのです。
川村も、その杉山の流儀は長年の付き合いで承知しています。
だから川村はその時、杉山に
「で、お前が考えているのはどんな戦略だ?」
とあえて訊いて、彼自身の考えを言わせてみたのです。
杉山は
「どこの広域合併でも、合併することでは合意ができても、新しい市の名前で揉める」ということから説明を始めました。
川村もそれは判っていました。
「だから、飯能市と入間市での合併では、最初から新しい市の名前を打ち出して、その新しい名前で賛同する人たちを増やしていく、というのはどうだろうか?」
「そうだなぁ・・・で、お前としては狭山茶市を前面に立てたいのか・・・」
川村は、杉山が<狭山茶市>という市名が好きだということはもちろん知っていたのです。
「判った。その狭山茶市と言う名称を前面に打ち立てていくという戦略については俺も賛成だが、その狭山茶市という名称を浸透させるにはどうしようと思っているんだ?」
「川村! それをアイデアマンのお前に相談してるんじゃないか・・」
アイデアマンという誉め言葉が何よりも嬉しい川村は、思い付いたことを話し出すと、次々とアイデアが湧いたのです。
結局、二人で最初にまとめた戦略と戦術とは次のようなものだったのです。
<基本的な戦略>
合併推進運動の最初からあらゆるコトに<狭山茶市>という名称を使用する。
「資金を投じる運動」ではなく「資金が集まる運動」として位置づける。
<当初の主な戦術>
「狭山茶市役所開設準備室」というWEBサイトを運営してしまう。
合併は<目的>なのではなく<手段>であることを明確にしていく。
「自治体の再構築」を原点の「市民登録」から体験させていく。
「市長や市議を動かす」のではなく「賛同者を市長や市議に」していく。
とりあえず、二人の間では、20A1年11月に予定されている入間市の市長選が<最初のステップ>だという共通認識が出来上がりました
杉山と川村がこの戦略と戦術を討議したのは、その市長選に先立つこと10ヶ月。20A1年の1月だったのです。 (つづく)
入間市役所の杉山満課長が、その胸に秘めた<狭山茶市実現計画>を最初に打ち明けた相手は、飯能市役所で係長をしていた川村正人でした。
二人は飯能高校の同級生で、それぞれ市役所の職員になる前は一般企業で働いた経験を持っているという共通項があったのです。
いま、その川村は狭山茶市の市議会議員になっています。
杉山が川村に持ちかけた<計画>とは、
「二人で入間市と飯能市の合併を5年以内に実現させよう!」
「まず実現のための戦略と戦術を二人で徹底的に練り上げよう!」
というものだったのです。
もちろん、杉山には「5年以内に狭山茶市を実現させるための巧妙な戦略も、具体的な戦術もすでに考えていたのですが、最初はそれを自分からは言わないのが組織の中での立ち回りがうまい杉山の得意技なのです。
川村も、その杉山の流儀は長年の付き合いで承知しています。
だから川村はその時、杉山に
「で、お前が考えているのはどんな戦略だ?」
とあえて訊いて、彼自身の考えを言わせてみたのです。
杉山は
「どこの広域合併でも、合併することでは合意ができても、新しい市の名前で揉める」ということから説明を始めました。
川村もそれは判っていました。
「だから、飯能市と入間市での合併では、最初から新しい市の名前を打ち出して、その新しい名前で賛同する人たちを増やしていく、というのはどうだろうか?」
「そうだなぁ・・・で、お前としては狭山茶市を前面に立てたいのか・・・」
川村は、杉山が<狭山茶市>という市名が好きだということはもちろん知っていたのです。
「判った。その狭山茶市と言う名称を前面に打ち立てていくという戦略については俺も賛成だが、その狭山茶市という名称を浸透させるにはどうしようと思っているんだ?」
「川村! それをアイデアマンのお前に相談してるんじゃないか・・」
アイデアマンという誉め言葉が何よりも嬉しい川村は、思い付いたことを話し出すと、次々とアイデアが湧いたのです。
結局、二人で最初にまとめた戦略と戦術とは次のようなものだったのです。
<基本的な戦略>
合併推進運動の最初からあらゆるコトに<狭山茶市>という名称を使用する。
「資金を投じる運動」ではなく「資金が集まる運動」として位置づける。
<当初の主な戦術>
「狭山茶市役所開設準備室」というWEBサイトを運営してしまう。
合併は<目的>なのではなく<手段>であることを明確にしていく。
「自治体の再構築」を原点の「市民登録」から体験させていく。
「市長や市議を動かす」のではなく「賛同者を市長や市議に」していく。
とりあえず、二人の間では、20A1年11月に予定されている入間市の市長選が<最初のステップ>だという共通認識が出来上がりました
杉山と川村がこの戦略と戦術を討議したのは、その市長選に先立つこと10ヶ月。20A1年の1月だったのです。 (つづく)
2008-04-23 Wed
(クドいでしょうが、これはフィクションです!)
杉山と川村が、<狭山茶市実現計画>に必要なコアメンバーとして誘ってみたのは、入間市にある狭山茶振興会で事務局長をしていた村田昭夫でした。
村田の実家は狭山茶の生産農家なのですが、彼自身は次男坊で、お茶づくりを継がなくてもいい立場だったのと、お茶の生産よりは、狭山茶全体の拡大と知名度向上に興味が有ったために、10年ほど前に<狭山茶振興会>の看板を掲げ、会長を空席にしたまま事務局長を名乗っていたのです。
村田には、街おこしや地域活性化について、彼なりの信念がありました。
それは、
「行政主導の街おこし、補助金をアテにした地域活性化は成功しない!」
「街おこしも地域活性化も、その原点は自分の足下を掘っていくことだ!」
というものです。
だから、村田は、行政主導で街おこしを仕切ろうとする公務員の杉山とは、いままで距離をおいていたのです。
ところが、川村から<狭山茶市実現計画>を聞かされて、
「これは、狭山茶で飯を喰っている人間たちにとって絶好のチャンスだ!」と感じとって、杉山と会うことにしたのです。
杉山と川村が考えた戦略と戦術を聞いて、川村が指摘したことや提案したことは次のようなことでした。
☆杉山と川村が戦略として考えた「合併推進運動の最初からあらゆるコトに狭山茶市という名称を使用する」というのは、戦略というよりは戦術レベルのことである。
★我々(杉山・川村・村田)にとっては「お茶農家やお茶屋さんたちを合併推進運動に巻き込むという意識を捨て、彼らの共通利益である狭山茶の振興を考えたら狭山茶市を実現させることが最良の方法であるという意識を持つ」というのが基本的な戦略である。
★専用WEBサイトの運営は不可欠だが、インターネットに接続しない市民のほうが多い現状を考えれば、地元新聞、ケーブルテレビ、地域のFM放送も参画させたい。
★11月の市長選を<最初のステップ>にするなら、特定候補を応援するよりも、市長選そのものを<狭山茶市をPRする場>として位置づけたほうがいい。
★時期を考えれば、市長選に立候補する意志のある人間はすでに準備を始めているはずだから、「こちらから立候補予定者のほうへ押しかけて狭山茶市実現をお願いする」のではなく、「立候補予定者のほうから狭山茶市実現を公約として使わせて下さいとこちらに頼みに来るような仕掛けをする」ほうがいい。
村田は、杉山や川村のように職場に束縛はされてはいないので、4人目以降の賛同者集めは主に自由に動ける村田が担当していくことになったのです。
それが20A1年1月下旬だったのです。 (つづく)
杉山と川村が、<狭山茶市実現計画>に必要なコアメンバーとして誘ってみたのは、入間市にある狭山茶振興会で事務局長をしていた村田昭夫でした。
村田の実家は狭山茶の生産農家なのですが、彼自身は次男坊で、お茶づくりを継がなくてもいい立場だったのと、お茶の生産よりは、狭山茶全体の拡大と知名度向上に興味が有ったために、10年ほど前に<狭山茶振興会>の看板を掲げ、会長を空席にしたまま事務局長を名乗っていたのです。
村田には、街おこしや地域活性化について、彼なりの信念がありました。
それは、
「行政主導の街おこし、補助金をアテにした地域活性化は成功しない!」
「街おこしも地域活性化も、その原点は自分の足下を掘っていくことだ!」
というものです。
だから、村田は、行政主導で街おこしを仕切ろうとする公務員の杉山とは、いままで距離をおいていたのです。
ところが、川村から<狭山茶市実現計画>を聞かされて、
「これは、狭山茶で飯を喰っている人間たちにとって絶好のチャンスだ!」と感じとって、杉山と会うことにしたのです。
杉山と川村が考えた戦略と戦術を聞いて、川村が指摘したことや提案したことは次のようなことでした。
☆杉山と川村が戦略として考えた「合併推進運動の最初からあらゆるコトに狭山茶市という名称を使用する」というのは、戦略というよりは戦術レベルのことである。
★我々(杉山・川村・村田)にとっては「お茶農家やお茶屋さんたちを合併推進運動に巻き込むという意識を捨て、彼らの共通利益である狭山茶の振興を考えたら狭山茶市を実現させることが最良の方法であるという意識を持つ」というのが基本的な戦略である。
★専用WEBサイトの運営は不可欠だが、インターネットに接続しない市民のほうが多い現状を考えれば、地元新聞、ケーブルテレビ、地域のFM放送も参画させたい。
★11月の市長選を<最初のステップ>にするなら、特定候補を応援するよりも、市長選そのものを<狭山茶市をPRする場>として位置づけたほうがいい。
★時期を考えれば、市長選に立候補する意志のある人間はすでに準備を始めているはずだから、「こちらから立候補予定者のほうへ押しかけて狭山茶市実現をお願いする」のではなく、「立候補予定者のほうから狭山茶市実現を公約として使わせて下さいとこちらに頼みに来るような仕掛けをする」ほうがいい。
村田は、杉山や川村のように職場に束縛はされてはいないので、4人目以降の賛同者集めは主に自由に動ける村田が担当していくことになったのです。
それが20A1年1月下旬だったのです。 (つづく)
2008-04-24 Thu
(これはフィクションです)
狭山茶振興会の村田が最初に声をかけたのが、入間市で<入間いつどこ情報源>という地域情報サイトを運営していた青木彰子でした。
村田がいままで彰子と会って交わした会話での感触で、彼女は入間市や飯能市との広域合併を望んでいる人間だということが判っていたからです。
青木彰子が運営している<入間いつどこ情報源>という地域情報サイトは、当時は、入間市役所webサイトのアクセス数に次いで、入間市民にもっとも多く閲覧されているサイトになっていたのです。
村田は彰子に会って、川村が考えた<狭山茶市役所開設準備室web版>という戦術の狙いと概要を説明しました。
さすがに彰子は自分で長年、地域情報サイトを運営してきていたので、この
<狭山茶市役所開設準備室web版>の面白さにすぐに惹かれたのです。
「要するに、狭山茶市という名前の下に合併しませんか、という単なる呼びかけなんかではなく、狭山茶市で合併することはすでに決まったという前提で動き出すってわけね!」
彰子は<狭山茶市役所開設準備室web版>の目的、役割についての理解も早かったのです。
川村と会った翌日には、素早くテスト版サイトを開設してしまいました。
杉山や川村、村田、彰子の4人は<狭山茶市役所開設準備室web版>サイトのトップ頁に、大きく「狭山茶市の市民登録の受付を開始します」という呼びかけを早々と掲載してみたのです。
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│ 狭山茶市の市民登録を受け付けます! │
│<登録の対象> 入間市・飯能市・日高市に在住在勤在学の方 │
│<資格と条件> メールで連絡できること、年・性・国籍は不問 │
│<市民の役割> 各種アンケートに回答すること │
│<暫定市民税> 年間一律1200円(有る時払い・催促無し) │
│<市民の総会> 毎月1回開催(曜日と時間帯は不定期) │
│<今後の予定> 常設版準備室の確保 市長・市議の選出 │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
これは一種の<独立国創設ごっこ>でしょう。
まず、この呼びかけを見ただけで、「これは面白そうだなぁ」と思う人だけを対象にする戦術なのです。
彰子は、この呼びかけを掲載したトップ頁の他に<狭山茶市の夢><狭山茶市の現状>という頁を作成しただけで、自分のネットワークにメールで
<狭山茶市役所開設準備室web版>へのリンクを依頼してみました。
彰子が運営している<飯能いつどこ情報源>では、入間市や飯能市、日高市で自前のwebサイトやブログを運営している個人、グルーム、事業所など総計2000件のサイトと相互リンクしていたのです。
「狭山茶市の市民登録の受付を開始します」という呼びかけは、その初日だけで10人の登録を獲得したのです。 (つづく)
狭山茶振興会の村田が最初に声をかけたのが、入間市で<入間いつどこ情報源>という地域情報サイトを運営していた青木彰子でした。
村田がいままで彰子と会って交わした会話での感触で、彼女は入間市や飯能市との広域合併を望んでいる人間だということが判っていたからです。
青木彰子が運営している<入間いつどこ情報源>という地域情報サイトは、当時は、入間市役所webサイトのアクセス数に次いで、入間市民にもっとも多く閲覧されているサイトになっていたのです。
村田は彰子に会って、川村が考えた<狭山茶市役所開設準備室web版>という戦術の狙いと概要を説明しました。
さすがに彰子は自分で長年、地域情報サイトを運営してきていたので、この
<狭山茶市役所開設準備室web版>の面白さにすぐに惹かれたのです。
「要するに、狭山茶市という名前の下に合併しませんか、という単なる呼びかけなんかではなく、狭山茶市で合併することはすでに決まったという前提で動き出すってわけね!」
彰子は<狭山茶市役所開設準備室web版>の目的、役割についての理解も早かったのです。
川村と会った翌日には、素早くテスト版サイトを開設してしまいました。
杉山や川村、村田、彰子の4人は<狭山茶市役所開設準備室web版>サイトのトップ頁に、大きく「狭山茶市の市民登録の受付を開始します」という呼びかけを早々と掲載してみたのです。
┌―――――――――――――――――――――――――――┐
│ 狭山茶市の市民登録を受け付けます! │
│<登録の対象> 入間市・飯能市・日高市に在住在勤在学の方 │
│<資格と条件> メールで連絡できること、年・性・国籍は不問 │
│<市民の役割> 各種アンケートに回答すること │
│<暫定市民税> 年間一律1200円(有る時払い・催促無し) │
│<市民の総会> 毎月1回開催(曜日と時間帯は不定期) │
│<今後の予定> 常設版準備室の確保 市長・市議の選出 │
└―――――――――――――――――――――――――――┘
これは一種の<独立国創設ごっこ>でしょう。
まず、この呼びかけを見ただけで、「これは面白そうだなぁ」と思う人だけを対象にする戦術なのです。
彰子は、この呼びかけを掲載したトップ頁の他に<狭山茶市の夢><狭山茶市の現状>という頁を作成しただけで、自分のネットワークにメールで
<狭山茶市役所開設準備室web版>へのリンクを依頼してみました。
彰子が運営している<飯能いつどこ情報源>では、入間市や飯能市、日高市で自前のwebサイトやブログを運営している個人、グルーム、事業所など総計2000件のサイトと相互リンクしていたのです。
「狭山茶市の市民登録の受付を開始します」という呼びかけは、その初日だけで10人の登録を獲得したのです。 (つづく)
2008-04-26 Sat
(これはフィクションです!)
村田から<狭山茶市実現計画>に声をかけられた地域情報サイト<入間いつどこ情報源>の青木彰子は、今度は自分が誰に声をかけるか、を考えました。
彰子には、「合併で実質的な戦力になるのは、入間市と飯能市、日高市が合併すると得をする人だ」という認識がありました。
彰子の認識では、市町村合併に限らず、地域活性化や街おこしで成果を生んでいるコトに共通しているのは「それを始めた人たちは、自分の得にもなることだから始めた」ということでした。
「地域のため」を打ち出せば、すぐに参加してくる人は増えますが、実は長続きしないのです。具体的な成果が出る前に、飽き足り、疲れたりしてしまうからです。
ところが「自分のため」に始めたものは、それが「自分のため」になっている限り続けられます。
しかし、「自分のプラスのため」にしていることが「周囲の人たちのマイナス」になっていれば、それを続けることはできなくなってしまいます。
それに対して、「自分のため」に始めたことでも、それが結果として、「地域のため」になれば、長続きするだけでなく、関わってくる人たちが飛躍的に広がっていくのです。
寂れた温泉地を再生させたプロジェクトの発起人は旅館業の人たちであり、人通りが減少した商店街を再生させたのは、その商店街に空き店舗をたくさん抱えてしまった大家が中心だったのです。
彰子が運営している地域サイトも「人のため」「地域のため」に始めたのではなく「自分のため」に始めたから長続きしているのです。
(入間市と飯能市が合併することが得になる人としては、どんな人がいるだろうか・・・?)
彰子は考えました。
そして、彰子の脳裏に思い浮かんだのは入間川大学でした。
入間川大学の所在地は飯能市になっていますが、敷地の一部が入間市とも接していて、社会人対象の公開講座や、学生が主体となるイベントなどでは、飯能市役所よりも入間市役所との関わりのほうが大きかったのです。
(入間川大学なら、狭山茶市実現計画に乗ってくるかもしれない・・・)
そう考えると彰子はワクワクしてきたのです。
幸いなことに、彰子には入間川大学には教員にも事務職員にも知り合いや、遊び仲間、呑み仲間が何人もいたのです。
(最初に声をかけるのは教授がいいか? それとも職員の課長クラスがいいか?)
考え抜いたあげくに、彰子が最初にメールを送ったのは大学の事務局で企画課長をしている高木良夫でした。
「入間市と飯能市の合併に興味がありますか? いま狭山茶市実現計画というのが密かに進行中です。一度、呑みながら意見交換しませんか?」
という内容のメールでした。
高木は、このメールの件を個人的に親しくしている副学長の北林隆夫に話したのです。
最初に彰子が、この件で企画課長の高木と顔を合わせたときは、もう、その場に、杉山、川原、村田も一堂に同席していたのです。
彰子の狙い通り、この1通のメールがキッカケで、入間川大学が<狭山茶市実現計画>に参画してくることになったのです。 (つづく)
村田から<狭山茶市実現計画>に声をかけられた地域情報サイト<入間いつどこ情報源>の青木彰子は、今度は自分が誰に声をかけるか、を考えました。
彰子には、「合併で実質的な戦力になるのは、入間市と飯能市、日高市が合併すると得をする人だ」という認識がありました。
彰子の認識では、市町村合併に限らず、地域活性化や街おこしで成果を生んでいるコトに共通しているのは「それを始めた人たちは、自分の得にもなることだから始めた」ということでした。
「地域のため」を打ち出せば、すぐに参加してくる人は増えますが、実は長続きしないのです。具体的な成果が出る前に、飽き足り、疲れたりしてしまうからです。
ところが「自分のため」に始めたものは、それが「自分のため」になっている限り続けられます。
しかし、「自分のプラスのため」にしていることが「周囲の人たちのマイナス」になっていれば、それを続けることはできなくなってしまいます。
それに対して、「自分のため」に始めたことでも、それが結果として、「地域のため」になれば、長続きするだけでなく、関わってくる人たちが飛躍的に広がっていくのです。
寂れた温泉地を再生させたプロジェクトの発起人は旅館業の人たちであり、人通りが減少した商店街を再生させたのは、その商店街に空き店舗をたくさん抱えてしまった大家が中心だったのです。
彰子が運営している地域サイトも「人のため」「地域のため」に始めたのではなく「自分のため」に始めたから長続きしているのです。
(入間市と飯能市が合併することが得になる人としては、どんな人がいるだろうか・・・?)
彰子は考えました。
そして、彰子の脳裏に思い浮かんだのは入間川大学でした。
入間川大学の所在地は飯能市になっていますが、敷地の一部が入間市とも接していて、社会人対象の公開講座や、学生が主体となるイベントなどでは、飯能市役所よりも入間市役所との関わりのほうが大きかったのです。
(入間川大学なら、狭山茶市実現計画に乗ってくるかもしれない・・・)
そう考えると彰子はワクワクしてきたのです。
幸いなことに、彰子には入間川大学には教員にも事務職員にも知り合いや、遊び仲間、呑み仲間が何人もいたのです。
(最初に声をかけるのは教授がいいか? それとも職員の課長クラスがいいか?)
考え抜いたあげくに、彰子が最初にメールを送ったのは大学の事務局で企画課長をしている高木良夫でした。
「入間市と飯能市の合併に興味がありますか? いま狭山茶市実現計画というのが密かに進行中です。一度、呑みながら意見交換しませんか?」
という内容のメールでした。
高木は、このメールの件を個人的に親しくしている副学長の北林隆夫に話したのです。
最初に彰子が、この件で企画課長の高木と顔を合わせたときは、もう、その場に、杉山、川原、村田も一堂に同席していたのです。
彰子の狙い通り、この1通のメールがキッカケで、入間川大学が<狭山茶市実現計画>に参画してくることになったのです。 (つづく)
2008-04-29 Tue
(これはフィクションです!)
入間市役所の課長だった杉山満が、それまで一人で温めていた<狭山茶市実現計画>は、高校の同級生であり飯能市役所で係長だった川村正人に実行を打ち明けたことで、さらに狭山茶振興会事務局長の村田昭夫へ伝わっていきました。
そして、その村田から、地域情報サイト<入間いつどこ情報源>管理人・青木彰子を経て、入間川大学事務局企画課長の高木良夫に伝わったことが、当時、副学長だった北村隆夫を初代の狭山茶市長にすることになったのです。
日本では平成15年頃から25年頃までに多くの市町村合併が実現しましたが、地域の私立大学がその合併の核になった例は、この狭山茶市が最初だったのです。
北村隆夫は、入間川大学で副学長している時から、少子化で生存競争が激しくなってきた私立大学の生き残り策の一つとして、「自治体との連携や統合もあり得る」と考えていたのです。
(そのためには、市町村合併に自らが先行して動いたほうが得策だ!)
という彼なりの<読み>があったのです。
だから、企画課長の高木良夫から<狭山茶市実現計画>を聞くと、すぐに「会合場所として入間川大学をいつでも提供することにしよう」と判断したのです。
事実、杉山満、川村正人、村田昭夫、青木彰子、高木良夫、北村隆夫の6人が、最初に顔を合わせたのは、入間川大学の副学長室だったのです。
後に、この会合は、<狭山茶市を誕生させた最初の会合>として狭山茶市の歴史に刻まれることになったのです。
この会合で、北村隆夫は次のような思い切った発言をしたのです。
「入間川大学を将来的には地方自治運営の人材を輩出する大学にしたい」
「そのために飯能市や入間市の幹部職員の何人かを教授として迎えたい」
「もちろん、卒業生の多くが職員に採用されることも期待したい」
「入間川大学を最終的には狭山茶市立大学に転換してもいい」
「だから、狭山茶市の実現に戦略的に関わっていきたい」
北村が言う「戦略的に関わっていく」というのは次のようなことでした。
「広域合併をテーマにした公開講座を定期的に開催していく」
「希望する教員には広域合併をテーマにしたゼミを持たせる」
「狭山茶を題材にした、一般上映に耐え得る質の高い映画を製作する」
それが20A1年2月中旬のことだったのです。 (つづく)
入間市役所の課長だった杉山満が、それまで一人で温めていた<狭山茶市実現計画>は、高校の同級生であり飯能市役所で係長だった川村正人に実行を打ち明けたことで、さらに狭山茶振興会事務局長の村田昭夫へ伝わっていきました。
そして、その村田から、地域情報サイト<入間いつどこ情報源>管理人・青木彰子を経て、入間川大学事務局企画課長の高木良夫に伝わったことが、当時、副学長だった北村隆夫を初代の狭山茶市長にすることになったのです。
日本では平成15年頃から25年頃までに多くの市町村合併が実現しましたが、地域の私立大学がその合併の核になった例は、この狭山茶市が最初だったのです。
北村隆夫は、入間川大学で副学長している時から、少子化で生存競争が激しくなってきた私立大学の生き残り策の一つとして、「自治体との連携や統合もあり得る」と考えていたのです。
(そのためには、市町村合併に自らが先行して動いたほうが得策だ!)
という彼なりの<読み>があったのです。
だから、企画課長の高木良夫から<狭山茶市実現計画>を聞くと、すぐに「会合場所として入間川大学をいつでも提供することにしよう」と判断したのです。
事実、杉山満、川村正人、村田昭夫、青木彰子、高木良夫、北村隆夫の6人が、最初に顔を合わせたのは、入間川大学の副学長室だったのです。
後に、この会合は、<狭山茶市を誕生させた最初の会合>として狭山茶市の歴史に刻まれることになったのです。
この会合で、北村隆夫は次のような思い切った発言をしたのです。
「入間川大学を将来的には地方自治運営の人材を輩出する大学にしたい」
「そのために飯能市や入間市の幹部職員の何人かを教授として迎えたい」
「もちろん、卒業生の多くが職員に採用されることも期待したい」
「入間川大学を最終的には狭山茶市立大学に転換してもいい」
「だから、狭山茶市の実現に戦略的に関わっていきたい」
北村が言う「戦略的に関わっていく」というのは次のようなことでした。
「広域合併をテーマにした公開講座を定期的に開催していく」
「希望する教員には広域合併をテーマにしたゼミを持たせる」
「狭山茶を題材にした、一般上映に耐え得る質の高い映画を製作する」
それが20A1年2月中旬のことだったのです。 (つづく)
2008-05-01 Thu
(これはフィクションです!)
西武池袋線の飯能駅には、改札口を出たすぐ前に<狭山茶市観光見学体験ツアー案内所>があります。
飯能駅に初めて降りた人で、特に決まった予定を立てていない人は、改札口を出ると、自然と、この案内所に向かいます。
それは、この案内所には、「何かないかなぁ」と期待して立ち寄った人たちに「やっぱり面白そうなことがあった!」と思ってもらえるものをいつも揃えているのですが、このことが市外の人たちに知られるようになったのです。
駅構内の最も目立つ場所に案内所を確保できているのは、狭山茶市が西武鉄道の大株主になっているからなのです。
その昔、西武鉄道が東証に上場していた頃は、株価も高く、利回りが低かったので、市役所が株主になることは「税金の無駄遣い」と非難されるかもしれないことだったでしょうが、その後、経営陣の不祥事で上場廃止になって以来、株価は下がり続け、底値で安定したために利回り利殖の対象株になったのです。
狭山茶市の初代市長になった北村隆夫は、選挙で掲げた政策の一つに、この<西武鉄道狭山茶市民持ち株会>も掲げていたので、市長に当選するとすぐに、この市民株主会を発足させたのです。
案内所の壁面には、市民グループが主催している様々な<市内観光ツアー><体験教室>や<きょうのイベント>などのポスターが所狭しと貼られています。
この案内所から、様々なツアーが30分単位で出発して行きます。
毎朝8時にスタートする<名栗湖テクテクツアー>は、飯能駅から名栗湖までを歩き、さわらびの湯で汗を流し、近くの飲食店で湯上がりのビールを呑んで、最後はレトロバスに揺られて飯能駅まで戻ってきます。コースの途中には、商店や民家がそれぞれ自家製のモノを販売しています。
これは言ってみれば、昔、南高麗地区で生まれた<お散歩マーケット>を飯能駅から名栗湖までの道程を延長して毎日開催するようにしたようなものです。
9時、10時、11時には、東飯能駅ビルに在る狭山茶市役所を見学する<新庁舎見学ツアー>が徒歩で順次出発していきます。
その他にも下記のようなツアーが毎日組まれていて、飯能駅から出発していきます。徒歩やバスだけでなく、自転車巡るコースもあります。
茶畑とお茶の博物館を見学するツアー、
森林と森林文化情報センターを見学するツアー、
入間川流域をカヌーとゴムボートで下るツアー、
高麗川流域をカヌーとゴムボートで下るツアー
入間川大学の諸施設を見学するツアー、
この他に、春夏秋冬の季節限定のイベントツアーが組まれて、飯能駅から出発します。
(つづく)
西武池袋線の飯能駅には、改札口を出たすぐ前に<狭山茶市観光見学体験ツアー案内所>があります。
飯能駅に初めて降りた人で、特に決まった予定を立てていない人は、改札口を出ると、自然と、この案内所に向かいます。
それは、この案内所には、「何かないかなぁ」と期待して立ち寄った人たちに「やっぱり面白そうなことがあった!」と思ってもらえるものをいつも揃えているのですが、このことが市外の人たちに知られるようになったのです。
駅構内の最も目立つ場所に案内所を確保できているのは、狭山茶市が西武鉄道の大株主になっているからなのです。
その昔、西武鉄道が東証に上場していた頃は、株価も高く、利回りが低かったので、市役所が株主になることは「税金の無駄遣い」と非難されるかもしれないことだったでしょうが、その後、経営陣の不祥事で上場廃止になって以来、株価は下がり続け、底値で安定したために利回り利殖の対象株になったのです。
狭山茶市の初代市長になった北村隆夫は、選挙で掲げた政策の一つに、この<西武鉄道狭山茶市民持ち株会>も掲げていたので、市長に当選するとすぐに、この市民株主会を発足させたのです。
案内所の壁面には、市民グループが主催している様々な<市内観光ツアー><体験教室>や<きょうのイベント>などのポスターが所狭しと貼られています。
この案内所から、様々なツアーが30分単位で出発して行きます。
毎朝8時にスタートする<名栗湖テクテクツアー>は、飯能駅から名栗湖までを歩き、さわらびの湯で汗を流し、近くの飲食店で湯上がりのビールを呑んで、最後はレトロバスに揺られて飯能駅まで戻ってきます。コースの途中には、商店や民家がそれぞれ自家製のモノを販売しています。
これは言ってみれば、昔、南高麗地区で生まれた<お散歩マーケット>を飯能駅から名栗湖までの道程を延長して毎日開催するようにしたようなものです。
9時、10時、11時には、東飯能駅ビルに在る狭山茶市役所を見学する<新庁舎見学ツアー>が徒歩で順次出発していきます。
その他にも下記のようなツアーが毎日組まれていて、飯能駅から出発していきます。徒歩やバスだけでなく、自転車巡るコースもあります。
茶畑とお茶の博物館を見学するツアー、
森林と森林文化情報センターを見学するツアー、
入間川流域をカヌーとゴムボートで下るツアー、
高麗川流域をカヌーとゴムボートで下るツアー
入間川大学の諸施設を見学するツアー、
この他に、春夏秋冬の季節限定のイベントツアーが組まれて、飯能駅から出発します。
(つづく)
2008-05-03 Sat
(これはフィクションです!)
狭山茶市にも他市のように<市役所見学ツアー>があります。
ご存じのように、狭山茶市役所は、その昔、丸広東飯能店だった東飯能駅の駅ビルです。そのため、ここはいまでも、通称<駅ビル庁舎>と呼ばれています。
この丸広東飯能店は閉店後、外資系の不動産投資会社に買い取られましたが、結局、開業できずに、手つかずで、そのまま再び売りに出されたのです。
しかし、結局、どこからも買い手が現れないために値が下がり続け、ついに、合併直前に合併前の飯能市が購入した時には、5億円にまで下がっていたという物件だったです。
おかげで飯能市も現狭山茶市も、思わぬ「儲けモノ」になったのです。
この駅ビル庁舎は、元々が商業施設だったので、JRと西武鉄道の駅改札口と直結している2階と1階のフロアは中堅スーパーに賃貸しています。営業時間は電車の始発時間から終電後30分までの長時間営業なので、丸広東飯能店時代とはうってかわって、順調に黒字経営を続けています。
もちろん、その家賃は狭山茶市の貴重な収入源になっています。
しかも、年々家賃が上昇していく<傾斜家賃方式>を採用していますから、現在のテナントが高家賃に耐えきれずに退去した後を狙っている順番待ちのテナント企業もすでに何社かが待機しているのです。
古くから飯能市や日高市に住んでいた市民は、この辺の経緯を知っているのですが、狭山茶市になってから転入してきた市民や、これから狭山茶市への転入を検討している人たちはまったく知りません。
そこで、この<駅ビル庁舎見学ツアー>は、「丸広東飯能店から合併後の新市庁舎になった経緯」の説明をすることになっているのです。
狭山茶市の<市役所見学ツアー>が他市の見学ツアーと根本的に異なっているのは有料にしていることです。
参加費は。個人参加は1人2000円。ファミリー参加は2人で3000円、3人で3500円にしています。
市役所見学にお金を払って参加する人がいるのか?と思われるでしょうが、実は、それがいるのです。
それは現在、狭山茶市に住んでいる住民ではなく、「これから狭山茶市への転入を考えている人」たちなのです。
それほど、狭山茶市は転入希望者が増える自治体になっているのです。
狭山茶市が他市からの転入者を増やしている要因の一つが、この駅ビル庁舎の8階と7階のフロアを占めている24時間保育園です。
当初の計画では、7階と6階には<駅前図書館>が入居する予定だったのですが、「地元西川材を使った本格的な木造建築の図書館を建てたい」という要望に押されて、その<駅前図書館>の計画は無くなってしまったのです。
そこで、急遽、8階ワンフロアだけだった保育園を7階まで拡大し、入園者確保のために市長が「24時間365日年中無休の保育園」を標榜したところ、入園希望者が市内外から殺到するようになったのです。
あまりの入園希望者の多さに、強気になった狭山茶市が「使用者は市民に限る」と定めたとたんに、狭山茶市への転入希望者が一気に増えたのです。 (つづく)
狭山茶市にも他市のように<市役所見学ツアー>があります。
ご存じのように、狭山茶市役所は、その昔、丸広東飯能店だった東飯能駅の駅ビルです。そのため、ここはいまでも、通称<駅ビル庁舎>と呼ばれています。
この丸広東飯能店は閉店後、外資系の不動産投資会社に買い取られましたが、結局、開業できずに、手つかずで、そのまま再び売りに出されたのです。
しかし、結局、どこからも買い手が現れないために値が下がり続け、ついに、合併直前に合併前の飯能市が購入した時には、5億円にまで下がっていたという物件だったです。
おかげで飯能市も現狭山茶市も、思わぬ「儲けモノ」になったのです。
この駅ビル庁舎は、元々が商業施設だったので、JRと西武鉄道の駅改札口と直結している2階と1階のフロアは中堅スーパーに賃貸しています。営業時間は電車の始発時間から終電後30分までの長時間営業なので、丸広東飯能店時代とはうってかわって、順調に黒字経営を続けています。
もちろん、その家賃は狭山茶市の貴重な収入源になっています。
しかも、年々家賃が上昇していく<傾斜家賃方式>を採用していますから、現在のテナントが高家賃に耐えきれずに退去した後を狙っている順番待ちのテナント企業もすでに何社かが待機しているのです。
古くから飯能市や日高市に住んでいた市民は、この辺の経緯を知っているのですが、狭山茶市になってから転入してきた市民や、これから狭山茶市への転入を検討している人たちはまったく知りません。
そこで、この<駅ビル庁舎見学ツアー>は、「丸広東飯能店から合併後の新市庁舎になった経緯」の説明をすることになっているのです。
狭山茶市の<市役所見学ツアー>が他市の見学ツアーと根本的に異なっているのは有料にしていることです。
参加費は。個人参加は1人2000円。ファミリー参加は2人で3000円、3人で3500円にしています。
市役所見学にお金を払って参加する人がいるのか?と思われるでしょうが、実は、それがいるのです。
それは現在、狭山茶市に住んでいる住民ではなく、「これから狭山茶市への転入を考えている人」たちなのです。
それほど、狭山茶市は転入希望者が増える自治体になっているのです。
狭山茶市が他市からの転入者を増やしている要因の一つが、この駅ビル庁舎の8階と7階のフロアを占めている24時間保育園です。
当初の計画では、7階と6階には<駅前図書館>が入居する予定だったのですが、「地元西川材を使った本格的な木造建築の図書館を建てたい」という要望に押されて、その<駅前図書館>の計画は無くなってしまったのです。
そこで、急遽、8階ワンフロアだけだった保育園を7階まで拡大し、入園者確保のために市長が「24時間365日年中無休の保育園」を標榜したところ、入園希望者が市内外から殺到するようになったのです。
あまりの入園希望者の多さに、強気になった狭山茶市が「使用者は市民に限る」と定めたとたんに、狭山茶市への転入希望者が一気に増えたのです。 (つづく)
2008-05-04 Sun
(これはフィクションです!)
<駅ビル庁舎見学ツアー>に続いて人気が高いのは<市営東飯能高層住宅見学ツアー>です。
入間市と飯能市、日高市の合併が合意に達したとき、それぞれ3市の当時の市長は、合併後の市役所についても下記のような合意をしていたと言われています。
1.3市の旧市役所庁舎はすべて売りに出す。入間市役所と日高市役所は、駅からの便が良くないため買い手はつかないかもしれないが、飯能市役所はすぐに売れるだろう。
2.そこで、飯能市役所が売却できたら、東飯能駅ビル(旧丸広東飯能店)を狭山茶市役所庁舎として購入するが、万が一、購入できない場合は、入間市駅北口に新庁舎を建設する。
3.入間市駅北口に新庁舎を建設する場合は、建設業者には、入間市役所と日高市役所を建設代金に等価交換で充当させることを了承した企業の中から選ぶ。
しかし、結果としては、飯能市役所の売却先がすぐに決まり、東飯能駅ビルも低価格で取得できたので、入間市駅北口に新庁舎を建設する必要がなくなったのです。
実は、飯能市役所売却の功労者は、当時、入間市役所で課長をしていた現副市長の杉山満だったのです。
もちろん、杉山以外にも市役所職員の中には「飯能市役所はマンション建設用地として売れる」と考えていた人間は多かったでしょう。
しかし、杉山のアイデアの面白さは、「民間業者が建設したマンションを新しい狭山市が借り上げ「事業収益用市営住宅にする」というところにあったのです。
杉山が提案したアイデアの骨子は次のようなものだったのです。
A・飯能市役所跡地を買った開発業者が賃貸用高層マンションを建設し、
<狭山茶市市営住宅>として入居者を募集する。
B・マンションの総戸数、グレード、家賃等は開発業者が自由に設定する。
C・入居者の審査は狭山茶市の住宅事業課が受託して行う。入居条件は
①狭山茶市民ではないこと
②家賃は年ごとに10%ずつ上昇する傾斜家賃制度である
D・所有者は狭山茶市に家賃収入の10%を入退管理費として支払う
つまり、このアイデアは、開発業者にとっては下記のようなメリットがあるのです。
・「市営住宅」としての信用で「賃貸住宅の空き室リスク」を回避できる。
・入居、退去に伴うトラブルをすべて狭山茶市が引き受けてくれる。
これに対して、狭山茶市には下記のようなメリットがあります。
・市の予算ゼロで「市営住宅」を建て、転入者を増やせる
・しかも、その新市民は高額納税者であるので税収も増える
・さらに、開発業者から家賃10%の入隊管理費が定期収入になる
この「狭山茶市営東飯能高層住宅」は超人気物件になったのです。
なぜなら、開発業者にとっては、売却してしまう分譲マンションではなく、永久に自社で抱え込む賃貸マンションなのですから、当初からグレードの高いマンションを設計し、しかも手抜き工事なんかするわけがありません。
しかも、市営住宅として借り上げられるのは「入居者が付いた部屋」に限られるのですから、全戸に、「住民が喜ぶ工夫とデザイン」が施されているのです。
(つづく)
<事業収益用市営住宅>については
当Blog【「三方一両得」の市営住宅】を参照して下さい
<駅ビル庁舎見学ツアー>に続いて人気が高いのは<市営東飯能高層住宅見学ツアー>です。
入間市と飯能市、日高市の合併が合意に達したとき、それぞれ3市の当時の市長は、合併後の市役所についても下記のような合意をしていたと言われています。
1.3市の旧市役所庁舎はすべて売りに出す。入間市役所と日高市役所は、駅からの便が良くないため買い手はつかないかもしれないが、飯能市役所はすぐに売れるだろう。
2.そこで、飯能市役所が売却できたら、東飯能駅ビル(旧丸広東飯能店)を狭山茶市役所庁舎として購入するが、万が一、購入できない場合は、入間市駅北口に新庁舎を建設する。
3.入間市駅北口に新庁舎を建設する場合は、建設業者には、入間市役所と日高市役所を建設代金に等価交換で充当させることを了承した企業の中から選ぶ。
しかし、結果としては、飯能市役所の売却先がすぐに決まり、東飯能駅ビルも低価格で取得できたので、入間市駅北口に新庁舎を建設する必要がなくなったのです。
実は、飯能市役所売却の功労者は、当時、入間市役所で課長をしていた現副市長の杉山満だったのです。
もちろん、杉山以外にも市役所職員の中には「飯能市役所はマンション建設用地として売れる」と考えていた人間は多かったでしょう。
しかし、杉山のアイデアの面白さは、「民間業者が建設したマンションを新しい狭山市が借り上げ「事業収益用市営住宅にする」というところにあったのです。
杉山が提案したアイデアの骨子は次のようなものだったのです。
A・飯能市役所跡地を買った開発業者が賃貸用高層マンションを建設し、
<狭山茶市市営住宅>として入居者を募集する。
B・マンションの総戸数、グレード、家賃等は開発業者が自由に設定する。
C・入居者の審査は狭山茶市の住宅事業課が受託して行う。入居条件は
①狭山茶市民ではないこと
②家賃は年ごとに10%ずつ上昇する傾斜家賃制度である
D・所有者は狭山茶市に家賃収入の10%を入退管理費として支払う
つまり、このアイデアは、開発業者にとっては下記のようなメリットがあるのです。
・「市営住宅」としての信用で「賃貸住宅の空き室リスク」を回避できる。
・入居、退去に伴うトラブルをすべて狭山茶市が引き受けてくれる。
これに対して、狭山茶市には下記のようなメリットがあります。
・市の予算ゼロで「市営住宅」を建て、転入者を増やせる
・しかも、その新市民は高額納税者であるので税収も増える
・さらに、開発業者から家賃10%の入隊管理費が定期収入になる
この「狭山茶市営東飯能高層住宅」は超人気物件になったのです。
なぜなら、開発業者にとっては、売却してしまう分譲マンションではなく、永久に自社で抱え込む賃貸マンションなのですから、当初からグレードの高いマンションを設計し、しかも手抜き工事なんかするわけがありません。
しかも、市営住宅として借り上げられるのは「入居者が付いた部屋」に限られるのですから、全戸に、「住民が喜ぶ工夫とデザイン」が施されているのです。
(つづく)
<事業収益用市営住宅>については
当Blog【「三方一両得」の市営住宅】を参照して下さい