2007-01-08 Mon
きょう(1/8)は成人式です。
私は、自分の成人式の時(昭和45年1月)は、練馬区の住民でしたが、式には出席しませんでした。
3つ年上の姉は、練馬区主催の成人式に出席しましたが、小学校、中学校が板橋区だったので「友人が一人もいなくて楽しくなかった」と語っていたのをいまでも覚えています。
その事情は私も同じなので、区主催の式には当初から出席するつもりはありませんでした。「案内状」が届いたかどうかの記憶もありません。
さらに、私には子供がいませんので、
「子供を成人式に出席させる親の体験」もできませんでした。
日本各地で「荒れる成人式」のことが話題にされるようになってからは、「そういう成人式を一度は覗いてみたい」と思っているのですが、式場に「父兄を装って入場してしまう」ということができません。
数年前にある市で公務員をしている友人から「市の主催行事は満員でない限り誰でも自由に入場してかまわないのだから行ってみれば」と言われたことがありますが、周囲からは「面の皮が厚い」と思われている私でも、まだそれはできません。
なぜ、こんなことを書いたのかと言うと、最近「成人式」に興味が湧いてきたからです。
↓
続き▽
2007-01-08 Mon
成人式というのは、「新成人」を誰が祝うのでしょうか?
それが本当に「祝うに値すること」であれば、当人や父兄だけでなく、新成人を迎える市民全体にとっても「祝う」ことなのではないのでしょうか?
そうであれば、式典会場には、当の新成人以外に、一般市民もたくさん参加していたほうがいいのではないでしょうか?
一般市民の中で、自分の子供や親戚でもない子供の「成人式」に参加したい、というような人は、「新成人にはぜひこのことだけは伝えたい」というメッセージが有るのではないでしょうか?
成人式での「お偉いさん」の挨拶は市長だけにしておいて、市民の中から「新成人にメッセージを送りたい!」という人がいれば、その希望者を「年代別に募集する」というのはどうでしょうか?
30才の人が贈る言葉と、50才の人が贈る言葉は、その語られる内容の視点も、その意味する重みも同じではないでしょう。
70才や80才になって、初めて「20才の人に自信を持って伝えられる」言葉が有るのかもしれません。
小中高校生にとって新成人は、「近い将来のために」自分たちよりもちょっと先に大人になった人たちです。その中学生や高校生から、「新成人に望むこと」とか「こんな大人にはならないで」というメッセージが、壇上から語られたら面白いでしょうね。
中には私のように「自分の成人式には出席出来なかったので・・・」という人も参加を希望するかもしれません。
もし、私が「50代の部」で新成人にメッセージを述べられるなら、その内容をこれから考えてみることにします。
2007-01-09 Tue
もし、私が新成人にメッセージを述べるなら、下記のような言葉を贈ります。
「大人になる」ということは、「仕事をしていく」ということでもあります。
人生は「取り組む仕事」が重要な部分を占めます。
自分に最適な仕事をしなければ人生の充実はありません。
しかし、その「自分にとって最適な仕事」は学校では教えてくれません。親に訊いても判らないかもしれません。就職したとしても、会社や上司が与えてくれるものでもないのです。
自分に最適な仕事は「与えられる」ものではありませんが、かといって「探す」ものでもありません。
実は、自分自身が多くのことを経験していく過程で「見つかる」ものなのです。 自分が手探りで試行錯誤していく過程で「これだ!」と「気づく」ものなのです。
いまから、「自分にとって最適な仕事」を見つけようとしたら、見るべき方向は「自分の足下」です。
その「自分の足下」とは、「好きなこと」「得意なこと」「自分に求められていること」「必然的に向こうから自分のほうにやってくること」「いつも自分の身近にあったこと」です。
その中にこそ、あなたに「充実した時間」と「生活には困らないだけの収入」と「味わいの深い人間関係」をもたらしてくれる「最適な仕事」になるものが有るのです。
「宝物」は、つねに地面に埋まっているのです。
「人生」とは、その宝物を掘り出せる人と、掘り出そうとはしない人がいるだけなのかもしれません。
「スコップで地面を掘り下げていく」ことをイメージしてみて下さい。
10m下に埋まっている宝物も、9m掘ったところで諦めてしまえば掘り出すことはできません。
しかし、残念なことに、私たちは「自分の足下をどれくらい掘ったら宝が出てくるのか」は、誰にもわからないのです。
そこで「途中で諦めて放り出してしまう」人と、ただ、ひたすら「宝が出てくるまで掘り続ける」人に別れてしまうのです。
「温泉の掘削」が判りやすい喩えでしょう。
↓
続き▽
2007-01-09 Tue
「60才の集い」が昨年度から開催されなくなりましたが、来年から「成人式」と「60才の集い」を同じ会場で同時開催する、というのはどうでしょうか?
新成人にとっての楽しみである「お互いに20才になった同期生たちとの再会」は、自分たちが企画すればいつでも会えることです。
それよりも、
「自分たちの40年後の姿」かもしれない、60才のオジサンやオバサンたち と普段はできない交流をしてみるのも良いのではないでしょうか?
開催方法としては下記のABCの3通りが考えられます。
A案【同じ会場・同じ時間帯】(一緒に合同で開催する)
・新成人の代表が「これからの抱負」を述べ、60才の代表が「新成人に贈る言葉」を述べることになるのでしょうか・・・・
・座席は「新成人の席」と「60才の席」を区別するよりも、混合で自由席にしたほうがいいでしょうね・・・・
・お互いが持参した物による「プレゼント交換」も本とかDVDに限定すると面白いのでは・・・
・オジサンオバサンバンドと新成人バンドの競演というのもできるかも・・・・
・中には親子で出席する家族が居るかもしれませんね・・・・
B案【同じ会場・前後の時間】(成人式の後で60才の集いを開催する)
・60才の人たちの中には、成人式を見学する人がいるだろうし、新成人にも「60才の集い」を覗いてみようとする人がいるのでは・・・・
・成人式終了と同時に60才の人たちが入場するとどうなるか・・・・
・どうせなら、「成人式の最後の30分」と「60才の集いの最初の30分」だけでも重ねてみる、というのはどうでしょうか・・・・
C案【隣の会場・同じ時間帯】(成人式は大ホール・60才は小ホール)
・A案やB案よりも、無理なく実現できる方法ですね・・・・
・市民会館の駐車場やロビーで楽しい交流ができるかも・・・・
・大画面スクリーンで、相互の会場風景が見られるようにしたら・・・・
・回数を重ねていくとそのうちに参加者数が逆転するかもしれません・・・
C案だけは、成人式を担当する教育委員会や選挙管理委員会が乗って来なくても、「60才の集い」のほうで勝手に成人式と同じ時間帯で小ホールを予約してしまえば、ゲリラ的に実現可能かもしれませんね。
2007-01-10 Wed
私は、常日頃から「人間には個人差が有る」のに、「成人」の基準を年齢で画一的に定めてしまうことに疑問を感じていました。
このことは、「飯能どうする研究所」とは直接には関係ないので、
Blog「日本どうする研究所」のほうに書き込みました。興味の有る方は、そちらを読んでみて下さい。 1/8の書き込み です。
でも、この「成人年齢親子申告制度」というのを、飯能から提唱したら面白いでしょうね。
「20才より早めに申告する親子」と、「20才より遅めに申告する親子」では、どちらが多くなるでしょうか・・・・