2006-09-12 Tue
ご存じのように、この「美しい国へ」というのは、安部晋三さんの著書のタイトルです。
安部さんが予定通りに次の総理大臣になれば、当然、この「美しい国へ」という言葉が、「日本の目指すべき姿」として、いつも意識されることになります。
ちょうど、小泉総理の言動が、いつも「構造改革」という言葉とセットになっていたように、です。
「安部総理の時代」 がいつまで続くか分かりませんが、その間、日本は「美しい国」を目指すことになります。
ならば、我が飯能がこれから目指す方向も、その「美しい国」を目指す動きの中で考えていくのも面白いのではないでしょうか?
そこで、当Blogに〈「美しい国へ」飯能編〉という項目タイトルを設けて、書いてみることにしました。
この『美しい国へ』(文春新書)という本は下記のような章立てになっています。
第一章 わたしの原点
第二章 自立する国家
第三章 ナショナリズムとはなにか
第四章 日米同盟の構図
第五章 日本とアジアそして中国
第六章 少子国家の未来
第七章 教育の再生
すでに読まれた人は判っていると思いますが、
この本には肝心の「美しい国とは何か?」ということが書かれてはいません。
そこで、この本に書かれていることだけでなく、今後報じられる安部さんの言動の中から、「何が国として美しいことなのか?」「どういう国が美しいのか?」を考え、同時に、それを飯能に当てはめて考えてみたいと思います。
安部さんが予定通りに次の総理大臣になれば、当然、この「美しい国へ」という言葉が、「日本の目指すべき姿」として、いつも意識されることになります。
ちょうど、小泉総理の言動が、いつも「構造改革」という言葉とセットになっていたように、です。
「安部総理の時代」 がいつまで続くか分かりませんが、その間、日本は「美しい国」を目指すことになります。
ならば、我が飯能がこれから目指す方向も、その「美しい国」を目指す動きの中で考えていくのも面白いのではないでしょうか?
そこで、当Blogに〈「美しい国へ」飯能編〉という項目タイトルを設けて、書いてみることにしました。
この『美しい国へ』(文春新書)という本は下記のような章立てになっています。
第一章 わたしの原点
第二章 自立する国家
第三章 ナショナリズムとはなにか
第四章 日米同盟の構図
第五章 日本とアジアそして中国
第六章 少子国家の未来
第七章 教育の再生
すでに読まれた人は判っていると思いますが、
この本には肝心の「美しい国とは何か?」ということが書かれてはいません。
そこで、この本に書かれていることだけでなく、今後報じられる安部さんの言動の中から、「何が国として美しいことなのか?」「どういう国が美しいのか?」を考え、同時に、それを飯能に当てはめて考えてみたいと思います。
2006-09-27 Wed
安部内閣がいよいよスタート。自ら「美しい国創り内閣」と名付けました。
(美しい国創り内閣 ではまだGoogle検索で出てきません)
この〈「美しい国へ」飯能編〉という項目タイトルの第1回(9/12)で述べましたが、安部さんの近著『美しい国へ』(文春新書)で、安部さんは「何が美しい国なのか」ということは全く書いていません。
ただ、拉致被害者の曾我ひとみさんが2002年秋、24年ぶりに故郷・佐渡に帰った時の記者会見の席で述べたことを紹介しています。
「(略)今、私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。(略)」
~『美しい国へ』 p97~
本当にこれだけしか書かれていません。
すでに多くの人が指摘しているように「美しい国」と言っても、目に見える姿や形だけではなく、そこに住んでいる人々の心も「美しく」なければ、国も、どの地域も「美しく」はなりません。
しかし、とは言っても、まず、
「目に見えるところ」 「目に付くところ」 「目に余るところ」
からでも「美しく」することは必要でしょう。
我が飯能も「美しい街」「美しい地域」「美しいところ」になるためには、まず
「目に余るところ」「目につくところ」からでも「美しく」していきたいものですね。
その代表的な課題を、思い付くまま列挙してみました。
1.駅前の「放置自転車の放置」は、来訪者の第一印象を悪くする
2.人が集まっている所での「若者の地べた座り・ウンコ座り」は醜い
3.「緑と清流の街」を標榜しているわりには街中には自然が無い
4.駅前周辺の景観、歩道、町並みに「美しさ」が何もない
5.「西川林業」を抱えているわりには木造の美しい建造物が少ない
6.道路から見える森林には「美しくない」所が多い
7.入間川にも高麗川にも「美しくない河原」も少なくない
こういうことを列挙すると、「目先のことばかり」とか「細かいことを」と言われるかもしれませんが、「美しさ」はまず、外見を整えることから始めるほうが効果的なのです。
女性の美しさもそれと似ています。
確かに、「外見よりも内面の美しさ」とか「心の美しさ」と言われますが、それでも、化粧やファッション、プロポーション、立ち居振る舞いなどの「外見」から美しくすることも効果的なのです。
もちろん、最近は男性だって「美しさ」が求められています。
「美しさ」には
「スッピンの美しさ」と「装いの美しさ」 とがあります。
それは「美しい国」「美しい飯能」にも言えるのではないでしょうか。自然の風景や人々の心など「あるがまま」のスッピンの美しさも重要ですが、お金と知恵を「美しくなる」ことに有効に活用していくことも不可欠です。
私は、サラリーマン時代、社員研修の会社に勤めていましたが、そこで言われていたことは「整理整頓の行き届いた企業は間違いなく良い会社だ」ということでした。
これは「良い会社は整理整頓が行き届いている」という現象面を指摘しただけではなく、
研修先の経営者や幹部への指導には
「良い会社にしようと思ったら、社長や上司は、まず職場での整理整頓を徹底させることだ」 ということも含まれていました。
日本という国も、飯能という地域も、飯能市役所という自治体も同じではないでしょうか。
「美しい国」「美しい街」を目指すなら、まず、目に見えるところから、「汚いもの」を排除し、「美しく整えていく」ことが必要なのだと思います。
(美しい国創り内閣 ではまだGoogle検索で出てきません)
この〈「美しい国へ」飯能編〉という項目タイトルの第1回(9/12)で述べましたが、安部さんの近著『美しい国へ』(文春新書)で、安部さんは「何が美しい国なのか」ということは全く書いていません。
ただ、拉致被害者の曾我ひとみさんが2002年秋、24年ぶりに故郷・佐渡に帰った時の記者会見の席で述べたことを紹介しています。
「(略)今、私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。(略)」
~『美しい国へ』 p97~
本当にこれだけしか書かれていません。
すでに多くの人が指摘しているように「美しい国」と言っても、目に見える姿や形だけではなく、そこに住んでいる人々の心も「美しく」なければ、国も、どの地域も「美しく」はなりません。
しかし、とは言っても、まず、
「目に見えるところ」 「目に付くところ」 「目に余るところ」
からでも「美しく」することは必要でしょう。
我が飯能も「美しい街」「美しい地域」「美しいところ」になるためには、まず
「目に余るところ」「目につくところ」からでも「美しく」していきたいものですね。
その代表的な課題を、思い付くまま列挙してみました。
1.駅前の「放置自転車の放置」は、来訪者の第一印象を悪くする
2.人が集まっている所での「若者の地べた座り・ウンコ座り」は醜い
3.「緑と清流の街」を標榜しているわりには街中には自然が無い
4.駅前周辺の景観、歩道、町並みに「美しさ」が何もない
5.「西川林業」を抱えているわりには木造の美しい建造物が少ない
6.道路から見える森林には「美しくない」所が多い
7.入間川にも高麗川にも「美しくない河原」も少なくない
こういうことを列挙すると、「目先のことばかり」とか「細かいことを」と言われるかもしれませんが、「美しさ」はまず、外見を整えることから始めるほうが効果的なのです。
女性の美しさもそれと似ています。
確かに、「外見よりも内面の美しさ」とか「心の美しさ」と言われますが、それでも、化粧やファッション、プロポーション、立ち居振る舞いなどの「外見」から美しくすることも効果的なのです。
もちろん、最近は男性だって「美しさ」が求められています。
「美しさ」には
「スッピンの美しさ」と「装いの美しさ」 とがあります。
それは「美しい国」「美しい飯能」にも言えるのではないでしょうか。自然の風景や人々の心など「あるがまま」のスッピンの美しさも重要ですが、お金と知恵を「美しくなる」ことに有効に活用していくことも不可欠です。
私は、サラリーマン時代、社員研修の会社に勤めていましたが、そこで言われていたことは「整理整頓の行き届いた企業は間違いなく良い会社だ」ということでした。
これは「良い会社は整理整頓が行き届いている」という現象面を指摘しただけではなく、
研修先の経営者や幹部への指導には
「良い会社にしようと思ったら、社長や上司は、まず職場での整理整頓を徹底させることだ」 ということも含まれていました。
日本という国も、飯能という地域も、飯能市役所という自治体も同じではないでしょうか。
「美しい国」「美しい街」を目指すなら、まず、目に見えるところから、「汚いもの」を排除し、「美しく整えていく」ことが必要なのだと思います。