2006-01-06 Fri
この〈地域での評価基準〉という項目タイトルでは、地域を評価するときのその評価基準について書いていきます。その第01回のきょうは「住みよい地域の基準とは主観的なものでいいのではないか?」ということについて考えてみました。
時々、経済雑誌などで「住みやすい地域ランキング」「豊かさランキング」というものが発表されます。対象とする「地域」には都道府県単位のものや市町村単位のものがあるようです。
それらのランキングでまず区別しておきたいのは、それが「地域の生活環境に対する評価」なのか? それとも「自治体行政に対する評価」なのか? ということでしょう。
ランキングの基準が「地域の生活環境への評価」であれば、海山川湖などの残されている自然、地域の総面積に占める緑の割合などが問われますが、「豊かさ」「住みやすさ」の中に占める重要度はかなりの個人差があります。
文化施設、運動施設、商業施設、医療機関などの充実度も重要な評価基準かもしれませんが、各自の施設への距離や利用度は個人によって大きな差があるものです。「徒歩5分で利用できる住民」と「徒歩では利用できない住民」とでは、同じ自治体の住民でも「住みやすさ」にはかなり差が生じます。
ランキングの基準が「自治体の行政能力に対する評価」であれば、明確な数字で示される評価基準が無数にあります。住民1万人に対する市役所職員数とか、議員数、累計負債総額など・・・ここには列挙しきれないくらいです。
上記の基準はすべて客観的な基準です。誰が測定してもその誤差はほとんどありません。だから、各種の調査で多用されるのでしょう。
しかし、「地域での住みやすさ」とか「地域の豊かさ」というのは、客観的な尺度ではなく、主観的な尺度で決まるのではないでしょうか。
同じ自治体の中でも、同じ地域の中でも、そこを「住みやすい」と思っている人もいれば、「住みにくい」と思っている人もいるものです。要は両者の割合が重要なのではないでしょうか。
私には飯能市で実施してみたい主観的なアンケート調査があります。それは「住民満足度」調査です。「満足度」というからには、客観的な尺度ではなく主観的な尺度を用いることになります。
例えば、「永住度アンケート」には下記のような選択肢を設けます。
a.死ぬまで飯能に住み続けたいと思っている
b.たぶん死ぬまで飯能に住んでいると思う
c.いつかは別の市町村に移転することも考えている
d.近い将来は、別の市町村に移転したいと考えている
e.できるだけ早く別の市町村に移転したいと思っている
私自身は迷わずに「a」を選択します。だからこそ膨大な時間を費やしてでも地域サイト『飯能いつどこ情報源』を運営しているのです。
みなさんはどうでしょうか? おそらく「a」や「b」を選択する人がかなり多いのではないかと私は推測しています。そして「e」を選択する人は極めて少ないのではないでしょうか?
その根拠はありません。「私はこの飯能をかなり気に入っているから他の人もたぶん同じだろう」という主観的な推測でしかありません。
少なくとも、「死ぬまでこの地域に住んでいたいと思っている人」が少ない地域よりも、多い地域のほうは「住みやすさ」や「豊かさ」では上位にランキングされるのではないでしょうか。
地域の良さを示す主観的な尺度は他にもあります。例えば「この街を他の市町村の人に自慢できる度合い」とか「この街を面白いと思う度合い」「この街の将来に期待できる度合い」・・・・。たくさんあるようです
時々、経済雑誌などで「住みやすい地域ランキング」「豊かさランキング」というものが発表されます。対象とする「地域」には都道府県単位のものや市町村単位のものがあるようです。
それらのランキングでまず区別しておきたいのは、それが「地域の生活環境に対する評価」なのか? それとも「自治体行政に対する評価」なのか? ということでしょう。
ランキングの基準が「地域の生活環境への評価」であれば、海山川湖などの残されている自然、地域の総面積に占める緑の割合などが問われますが、「豊かさ」「住みやすさ」の中に占める重要度はかなりの個人差があります。
文化施設、運動施設、商業施設、医療機関などの充実度も重要な評価基準かもしれませんが、各自の施設への距離や利用度は個人によって大きな差があるものです。「徒歩5分で利用できる住民」と「徒歩では利用できない住民」とでは、同じ自治体の住民でも「住みやすさ」にはかなり差が生じます。
ランキングの基準が「自治体の行政能力に対する評価」であれば、明確な数字で示される評価基準が無数にあります。住民1万人に対する市役所職員数とか、議員数、累計負債総額など・・・ここには列挙しきれないくらいです。
上記の基準はすべて客観的な基準です。誰が測定してもその誤差はほとんどありません。だから、各種の調査で多用されるのでしょう。
しかし、「地域での住みやすさ」とか「地域の豊かさ」というのは、客観的な尺度ではなく、主観的な尺度で決まるのではないでしょうか。
同じ自治体の中でも、同じ地域の中でも、そこを「住みやすい」と思っている人もいれば、「住みにくい」と思っている人もいるものです。要は両者の割合が重要なのではないでしょうか。
私には飯能市で実施してみたい主観的なアンケート調査があります。それは「住民満足度」調査です。「満足度」というからには、客観的な尺度ではなく主観的な尺度を用いることになります。
例えば、「永住度アンケート」には下記のような選択肢を設けます。
a.死ぬまで飯能に住み続けたいと思っている
b.たぶん死ぬまで飯能に住んでいると思う
c.いつかは別の市町村に移転することも考えている
d.近い将来は、別の市町村に移転したいと考えている
e.できるだけ早く別の市町村に移転したいと思っている
私自身は迷わずに「a」を選択します。だからこそ膨大な時間を費やしてでも地域サイト『飯能いつどこ情報源』を運営しているのです。
みなさんはどうでしょうか? おそらく「a」や「b」を選択する人がかなり多いのではないかと私は推測しています。そして「e」を選択する人は極めて少ないのではないでしょうか?
その根拠はありません。「私はこの飯能をかなり気に入っているから他の人もたぶん同じだろう」という主観的な推測でしかありません。
少なくとも、「死ぬまでこの地域に住んでいたいと思っている人」が少ない地域よりも、多い地域のほうは「住みやすさ」や「豊かさ」では上位にランキングされるのではないでしょうか。
地域の良さを示す主観的な尺度は他にもあります。例えば「この街を他の市町村の人に自慢できる度合い」とか「この街を面白いと思う度合い」「この街の将来に期待できる度合い」・・・・。たくさんあるようです
2006-02-06 Mon
この〈地域での評価基準〉という項目タイトルの第01回では、「本当の住みよい地域は客観的な基準ではなく主観的な基準で決まる」ということを書きました。その一例として「住民の永住度意識」を挙げてみたわけです。
しかし、その「永住への意識」は「飯能生まれの人」と「他所から飯能に移転してきた人」とではかなり異なるでしょう。
そこで第02回では、この「主観的なアンケート」では「飯能に住むようになった経緯の区分」も把握しておく必要があるということについて書いてみました。
住民に様々なアンケートを実施する場合、無記名回答であっても、性別、年齢、居住地域の他に、記入してもらう「項目」に下記の「区分」も必要なのではないでしょうか?
(1).飯能で生まれて飯能以外に住んだことがない
(2).飯能生まれの飯能育ちだが飯能以外でも生活したことがある
(3).飯能生まれではないが子供の時に移転してきて飯能で育った
(4).進学、就職、結婚などの事情で飯能に移転してきた
(5).成人してから自分の意志で飯能に移転してきた
(6).他に住む場所がないから仕方なく飯能に移転してきた
第01回に書いた「永住度アンケート」を実施したら、上記の区分でいうと、(1)の人に「死ぬまで飯能に住んでいたいと思っている」人が多いのは当然でしょう。これは、他のどの地域で「永住度アンケート」を実施しても、「その地域で生まれ育った人の永住度は高い」という集計結果になるでしょう。
私が、飯能市で「住民満足度調査」を実施してみたい理由は、「移転経緯の区分(5)」の人の割合が他市と比較してかなり高いのではないかと思うからです。そして、区分(5)の人における「永住を希望している人」の割合も他市と比較してかなり高いのではないかとも思うからです。
同じ「永住度アンケート」を近隣の日高市、入間市、狭山市、所沢市などでも実施したらどうなるでしょうか?
周辺の市に住んでいる人たちからは反発されるかもしれませんが、「死ぬまでこの地域に住み続けたいと思っている人」は、日高市や、入間市、狭山市よりも我が飯能市のほうがはるかに多いのではないかと確信しています。
私としては、日本中の市町村で、この「永住度アンケート」を実施しても、我が飯能市は、かなり「高いランク」に位置するのではないかと思っています。そのことが地域への自慢、愛着にも結びつきます。だからこそ、この「永住度アンケート」を実施してみたいのです。
みなさんは、このことに対してどのような考えをお持ちでしょうか?
しかし、その「永住への意識」は「飯能生まれの人」と「他所から飯能に移転してきた人」とではかなり異なるでしょう。
そこで第02回では、この「主観的なアンケート」では「飯能に住むようになった経緯の区分」も把握しておく必要があるということについて書いてみました。
住民に様々なアンケートを実施する場合、無記名回答であっても、性別、年齢、居住地域の他に、記入してもらう「項目」に下記の「区分」も必要なのではないでしょうか?
(1).飯能で生まれて飯能以外に住んだことがない
(2).飯能生まれの飯能育ちだが飯能以外でも生活したことがある
(3).飯能生まれではないが子供の時に移転してきて飯能で育った
(4).進学、就職、結婚などの事情で飯能に移転してきた
(5).成人してから自分の意志で飯能に移転してきた
(6).他に住む場所がないから仕方なく飯能に移転してきた
第01回に書いた「永住度アンケート」を実施したら、上記の区分でいうと、(1)の人に「死ぬまで飯能に住んでいたいと思っている」人が多いのは当然でしょう。これは、他のどの地域で「永住度アンケート」を実施しても、「その地域で生まれ育った人の永住度は高い」という集計結果になるでしょう。
私が、飯能市で「住民満足度調査」を実施してみたい理由は、「移転経緯の区分(5)」の人の割合が他市と比較してかなり高いのではないかと思うからです。そして、区分(5)の人における「永住を希望している人」の割合も他市と比較してかなり高いのではないかとも思うからです。
同じ「永住度アンケート」を近隣の日高市、入間市、狭山市、所沢市などでも実施したらどうなるでしょうか?
周辺の市に住んでいる人たちからは反発されるかもしれませんが、「死ぬまでこの地域に住み続けたいと思っている人」は、日高市や、入間市、狭山市よりも我が飯能市のほうがはるかに多いのではないかと確信しています。
私としては、日本中の市町村で、この「永住度アンケート」を実施しても、我が飯能市は、かなり「高いランク」に位置するのではないかと思っています。そのことが地域への自慢、愛着にも結びつきます。だからこそ、この「永住度アンケート」を実施してみたいのです。
みなさんは、このことに対してどのような考えをお持ちでしょうか?
2006-04-02 Sun
この〈地域での評価基準〉第02回(2/6)で書いた「飯能に住むようになった経緯」で言うと、私は、5.の「成人してから自分の意志で飯能に移転してきた」人間です。
飯能市に転入してきたのは1983年、33才の時でした。その前は、埼玉県川口市にある公団住宅に母親と二人で住んでいて、最寄りの京浜東北線の蕨駅から毎日池袋まで通勤していたのです。
その私が「この団地を出て、どこか一戸建てを買って引っ越そう!」と考えるようになった時は、まだ「飯能」という地名は、私の心の中にはありませんでした。当時の私には「ここに住みたい!」というような場所は特に無かったのです。そういう人が転居先の地域を決める基準は「通勤の便」になります。
当時私が勤めていた会社は池袋に在ったので、東武東上線か西武池袋線の沿線で物件を探すことになりますが、私が最初に探したのは東武東上線沿線でした。なぜなら、私は物心が付く前から成人するまでその沿線に住んでいたからです。
東武東上線沿線といっても、成増や志木、川越の一戸建てでは、サラリーマンだった当時の私には手が出ませんでした(今も出ませんが・・・)。そこで森林公園や寄居周辺の物件を探しているうちに、「あること」に気づいたのです。
それは、「ここに住んだら、西武球場からの帰りが辛いな」ということでした。西武ファンだった当時の私は年に数回ほど仕事の後で西武球場に観戦に行っていました。試合終了後にたっぷりビールを呑んだ体で、西武球場駅から池袋駅経由で京浜東北線の蕨駅に帰るのですら「辛い」と思ったのですから、東武東上線の「寄居」や「森林公園」では、考えるだけでもウンザリです。
そこで西武池袋線沿線で物件を探すことにその方針を変え、最初は所沢駅と小手指駅に絞り込んで物件を探すことにしました。この二つの駅にこだわったのは「始発駅」だからです。
当時は恵まれたサラリーマン生活を送っていた私でしたが、一つだけ辛かったのは「満員電車で立ったままの通勤」だったのです。蕨駅→赤羽駅→池袋駅の通勤では往復とも絶対に座れません。電車に乗っているのはわずか20分ほどなのですが、それでも「朝の眠いとき」「酔って帰るとき」の「立ったまま通勤」は、とくに辛かったのです。
この体験から「次ぎに引っ越す時は始発駅にしよう」と考えていたのです。始発駅に住めば電車に乗るときはいつでも必ず着席できます。
しかし、サラリーマンだった当時の私では所沢や小手指はとても買える値段ではありませんでした。他の駅の周辺であれば「買える値段」の物件はありましたが、だからと言って、始発駅ではないところに住む気にはなれません。
ある日、不動産業者から「お客さんの年収では飯能にまで行かないと買えるような物件はありませんよ」と言われたのです。その業者に連れて来られて初めて飯能に来たのが、私と飯能との「出会い」だったのです。
幸いなことに、その業者に最初に見せられた土地(飯能高校の裏)が大いに気に入ったのです。なぜなら、歩いていても「山が見える」場所にあり、しかも隣が風雅な池のある広いお寺(心応寺)で、しかも毎日時を告げる鐘の音が聞こえたからです。このことだけで、私はすっかり飯能が好きになりました。
もし、この時、その業者に飯能に連れられて来なければ、もし、最初に見せられた土地を気に入らなかったら、いまも飯能に住んでいなかったかもしれません。
その土地を買って、毛呂山町で工務店をしている叔父に注文して建ててもらった家に住んで、初めて「庭先の水田」にホタルが棲んでいることを知ったときの感激はいまでも覚えています。
2006-04-13 Thu
この〈地域での評価基準〉第03回(4/2)で、私が飯能市に惹かれた評価基準の一つは「飯能が始発駅だから必ず座れるからだった」ということを書きました。
不動産業者は「朝も絶対に座れます」と力説していましたが、「本当に座れるだろうか?」「不動産業者のいい加減なセールストークではないだろうか?」と疑った私は、物件を契約する前に、それを実際に確かめてみたのです。
平日の夜に市内の旅館に泊まりました。名前は忘れましたが、いまの奥むさし旅館の近くにあった古い木造の旅館だったことは覚えています。もしかして石田(屋)旅館という名前だったかもしれません。
その旅館から翌朝、実際に自分が飯能に越してきたら毎日乗ることになるであろう07:00〜07:30の時間帯に飯能駅のホームに並んで、「本当に座れるかどうか」を確認してみたのです。
飯能に転居して毎日池袋に通うようになって、初めて私は「立ったままの20分よりも座れる60分のほうが通勤は楽だ」ということに気が付きました。帰りもレッドアロー号があるので確実に座れます。
乗ってから降りるまで座っていける通勤は本当に楽でした。なによりも本がたっぷり読めることが嬉しかったですね。ビジネス書なら毎月10冊は電車の中だけで読めたのです。酔って眠り込んでしまっても終点ですから「うっかり乗り過ごしてしまう」というも心配もありません。
この「始発駅」という「強み」はいまでも私にとっては「飯能に住んでいて良かった」と思えている理由の一つです。逆に言うと、飯能駅が始発駅でなくなってしまったら「飯能に住んでいて良かった」とは思えなくなってしまうかもしれません。
しかし、「始発駅」が「住んでいる地域の評価基準」の重点項目になるのは、毎日池袋方面に通勤する人だけでしょう。同じ家族でも、通勤電車に乗らない人にとっては「始発駅」であることはあまり魅力ではないのでしょう。
いま飯能市内に住んでいる人の多くは、「飯能に住んでいて良かったと思うこと」としては「森林」「清流」「風景」などの自然環境を挙げる人が大半だと思います。しかし、物件を探しに川口市から飯能市に通っている頃の私は、自然にはあまり関心がありませんでした。
飯能市内で最初に案内された物件に惚れて、そこを買おうと思い始めた頃、持ち家を買った体験のある同僚にそのことを話してみました。ところが彼から「最初に見た物件は絶対に買うな!」「物件を100件見るまでは、中にどんなに欲しいと思う物件があってもどれも買わないほうがいい!」とアドバイスされたのです。
その理由は明解でした。
?「住宅を見慣れていない人は見た目の綺麗さだけで判断してしまう」
?「人に貸す家ならともかく自分で住む家は住宅の質も大事だが周囲の環境のほうがもっと大事だ」
?「なぜなら住宅の不満は金をかければ解消できるが周囲の環境は個人では変えられないからだ」と言うのです。
さらに、その同僚は「物件を100件見れば誰でも不動産の善し悪しを見抜ける眼力が養われる」、だから「買うなら100件以上見てから、その中から選べ」とも言われました。
その説に妙に納得した私は、それからは、休日の度に当時住んでいた川口市から飯能市に通い詰めたのです。平日に不動産業者にアポを入れておけば、土日でまとめて5〜6件の物件を見て回ることができました。新築物件も中古物件もありました。建て売り物件も土地だけの物件もありました。
そうやって、数社の不動産業者に飯能市内の物件を案内されているうちに、私は「始発駅である」こと以外にも、飯能には素晴らしいところがあることに気づいたのです。それは、街の中をあるいていても見える「山」であり、街中を流れている「川」であり、家の中に居ても聞こえてくる「お寺の鐘」でした。
物件を100件も見るのはとても無理でした。「飯能駅から徒歩15分以内」と限定していたので、売りに出されている物件が少なかったのです。それでも、最終的に総計50件ほど見て、私は買う物件を決めました。実は、それは私が飯能市内で最初に案内された物件だったのです。
しかし、同僚のアドバイスを受け入れて50件の物件を見比べてから購入したことは私にとっては大いなるメリットがありました。それは「買った物件をいつまでも後悔することがなかった」ことです。
もし、最初に見た物件をすぐに買ってしまったとしたらどうでしょうか? おそらく、「早まったかなぁ・・・」「もっと探せば、ここより良い物件が有ったかもしれなかったかなぁ・・・」という思いが生じてきたかもしれません。
その家に転居して来てからも、念のため新聞の折り込みチラシをチェックしていましたが、1年経っても、3年経っても、「我が家の物件以上の物は出ない」「やっぱりこの物件にして良かった」と思えることばかりだったのです。
その家には、いまのマンションに越してくるまで15年ほど住んでいましたが、飯能に住めば住むほど、飯能市内の「里山」と「清流」と「神社仏閣」の環境の良さをかみしめています。というよりは、「飯能の良さ」は、ここに暮らしてみて初めて「当初の期待以上だった」ということが分かったのです。
不動産業者は「朝も絶対に座れます」と力説していましたが、「本当に座れるだろうか?」「不動産業者のいい加減なセールストークではないだろうか?」と疑った私は、物件を契約する前に、それを実際に確かめてみたのです。
平日の夜に市内の旅館に泊まりました。名前は忘れましたが、いまの奥むさし旅館の近くにあった古い木造の旅館だったことは覚えています。もしかして石田(屋)旅館という名前だったかもしれません。
その旅館から翌朝、実際に自分が飯能に越してきたら毎日乗ることになるであろう07:00〜07:30の時間帯に飯能駅のホームに並んで、「本当に座れるかどうか」を確認してみたのです。
飯能に転居して毎日池袋に通うようになって、初めて私は「立ったままの20分よりも座れる60分のほうが通勤は楽だ」ということに気が付きました。帰りもレッドアロー号があるので確実に座れます。
乗ってから降りるまで座っていける通勤は本当に楽でした。なによりも本がたっぷり読めることが嬉しかったですね。ビジネス書なら毎月10冊は電車の中だけで読めたのです。酔って眠り込んでしまっても終点ですから「うっかり乗り過ごしてしまう」というも心配もありません。
この「始発駅」という「強み」はいまでも私にとっては「飯能に住んでいて良かった」と思えている理由の一つです。逆に言うと、飯能駅が始発駅でなくなってしまったら「飯能に住んでいて良かった」とは思えなくなってしまうかもしれません。
しかし、「始発駅」が「住んでいる地域の評価基準」の重点項目になるのは、毎日池袋方面に通勤する人だけでしょう。同じ家族でも、通勤電車に乗らない人にとっては「始発駅」であることはあまり魅力ではないのでしょう。
いま飯能市内に住んでいる人の多くは、「飯能に住んでいて良かったと思うこと」としては「森林」「清流」「風景」などの自然環境を挙げる人が大半だと思います。しかし、物件を探しに川口市から飯能市に通っている頃の私は、自然にはあまり関心がありませんでした。
飯能市内で最初に案内された物件に惚れて、そこを買おうと思い始めた頃、持ち家を買った体験のある同僚にそのことを話してみました。ところが彼から「最初に見た物件は絶対に買うな!」「物件を100件見るまでは、中にどんなに欲しいと思う物件があってもどれも買わないほうがいい!」とアドバイスされたのです。
その理由は明解でした。
?「住宅を見慣れていない人は見た目の綺麗さだけで判断してしまう」
?「人に貸す家ならともかく自分で住む家は住宅の質も大事だが周囲の環境のほうがもっと大事だ」
?「なぜなら住宅の不満は金をかければ解消できるが周囲の環境は個人では変えられないからだ」と言うのです。
さらに、その同僚は「物件を100件見れば誰でも不動産の善し悪しを見抜ける眼力が養われる」、だから「買うなら100件以上見てから、その中から選べ」とも言われました。
その説に妙に納得した私は、それからは、休日の度に当時住んでいた川口市から飯能市に通い詰めたのです。平日に不動産業者にアポを入れておけば、土日でまとめて5〜6件の物件を見て回ることができました。新築物件も中古物件もありました。建て売り物件も土地だけの物件もありました。
そうやって、数社の不動産業者に飯能市内の物件を案内されているうちに、私は「始発駅である」こと以外にも、飯能には素晴らしいところがあることに気づいたのです。それは、街の中をあるいていても見える「山」であり、街中を流れている「川」であり、家の中に居ても聞こえてくる「お寺の鐘」でした。
物件を100件も見るのはとても無理でした。「飯能駅から徒歩15分以内」と限定していたので、売りに出されている物件が少なかったのです。それでも、最終的に総計50件ほど見て、私は買う物件を決めました。実は、それは私が飯能市内で最初に案内された物件だったのです。
しかし、同僚のアドバイスを受け入れて50件の物件を見比べてから購入したことは私にとっては大いなるメリットがありました。それは「買った物件をいつまでも後悔することがなかった」ことです。
もし、最初に見た物件をすぐに買ってしまったとしたらどうでしょうか? おそらく、「早まったかなぁ・・・」「もっと探せば、ここより良い物件が有ったかもしれなかったかなぁ・・・」という思いが生じてきたかもしれません。
その家に転居して来てからも、念のため新聞の折り込みチラシをチェックしていましたが、1年経っても、3年経っても、「我が家の物件以上の物は出ない」「やっぱりこの物件にして良かった」と思えることばかりだったのです。
その家には、いまのマンションに越してくるまで15年ほど住んでいましたが、飯能に住めば住むほど、飯能市内の「里山」と「清流」と「神社仏閣」の環境の良さをかみしめています。というよりは、「飯能の良さ」は、ここに暮らしてみて初めて「当初の期待以上だった」ということが分かったのです。
2006-04-24 Mon
この〈地域での評価基準〉第03回で書いたように、私が飯能に転居してくる際に重視したことは「飯能駅が必ず座れる始発駅だから」ということでした。
しかし、それは「都心に通勤している人」に限られている評価基準でしょう。車通勤の人や、飯能市内からあまり出ない人にとってはあまり魅力のある評価基準ではないのかもしれません。
もし、西武鉄道の事情によって、飯能駅が始発駅ではなくなったら、それが理由で飯能市から転出してしまう人は少なくないでしょう。私も、毎日都内に通勤していたら、やはり「他の始発駅」の地域に転居するかもしれません。
しかし、いまの私は「毎朝ラッシュ時に通勤する」ことは無いので、仮に、飯能駅が始発駅でなくなったとしても、もう飯能市から転出しようとは思いません。私の中で「地域の評価基準」が変わったからです。
いまの私は飯能の「里山」「清流」「茶畑」「古い民家」などに魅力を感じていますが、都心に通勤している時は、それらのことは実際には殆ど知らなかったのです。市内を殆ど歩かなかったので、それらの自然に触れる機会が無かったからでしょう。
飯能市内からあまり出ない人にとっては「市内に魅力的な大型商業施設が在る」ことは「地域の評価基準」の中では重要なポイントでしょう。しかし、仕事や遊びで頻繁に都心に出ている人にとっては、「市内に魅力的な大型商業施設が在る」ことは「地域の評価基準」としてはどうでもいいことです。「無くても有ってもどちらでもいい」程度のものです。
ですから、「市内に新たな大型商業施設ができる」ことに反対はしませんし、丸広東飯能店が閉店することを「不便になった」とも思いません。市内の299号沿いに「道の駅」のような商業施設が開業するのは嬉しいですが、それは「自分の買い物」のためではなく、それによって飯能市の知名度が少しでも向上するのが嬉しいだけです。
私は映画が大好きです。レンタルビデオではなく映画館で観る映画が大好きなのです。当Blogの「編集人プロフィール」の<最近映画館で観たお薦め映画>を読んで頂くと分かるように、ユナイテッドシネマ入間にはかなり頻繁に行っています。
だからと言って「飯能にもシネマコンプレックスが在ればいいのに」とは思いません。「映画を観に行く」のは好きですが、「映画館の側に住みたい」とは思わないからです。いまの飯能市にシネコンが無くても、いずれ入間市と合併すれば「我が地域にも映画館は在る」という状態にはなるでしょう。
他の地域から飯能市に転入して来たという人とたまに知り合いますが、「子供を自由の森学園に通学させるために飯能に越して来た」という家族が意外とたくさんいます。こういう家族にとっては「通わせたい学校の有無」は、重要な「地域の評価基準」なのでしょう。
しかし、そういう家族の中には「子供が自由の森学園を卒業したら飯能から転出する」という一家と、「子供が自由の森学園を卒業してもそのまま飯能に住み続ける」ことになる一家もいます。飯能に住んでいるうちに「飯能に住んでいることの良さ」が実感できたからでしょう。
これからどこに住もうか?
そう考える時の判断基準の一つに「その地域に有るもの」と「その地域には無いもの」の比較もあるでしょう。
私は、駿河台大学で仕事をしているわけではないし、大学に通う子供もいないので「飯能に駿河台大学が在る」ことが「飯能に住んでいて良かった」ことの評価基準にはなっていません。
しかし、「森林文化都市大学」というものが開校したら掲げるであろう「建学の理念」や、建造されるであろう「地元の木材で出来た校舎」に魅力を感じているので、もし、他の地域で、その「森林文化都市大学」が実現したら、飯能を出てその地域に移転してしまうかもしれません。
でも、いまのところ、私は飯能が一番住みたい地域で、ここから転出したくはありません。「森林文化都市大学」ができるのなら飯能にできて欲しいと思っています。だから、自分から「飯能市に森林文化都市大学を創設しよう」など夢のような戯言を当Blogに書いているのかもしれません。
自分が好きで住んでいる地域に、これからも住み続けようと願っているのなら、「我が地域にこんなものが欲しい」というものがあれば、その実現に自分が関わればいいのです。「我が地域はこうなって欲しい」というものがあるなら、自分からそうなるようにしていけばいいのでしょう。
きょうの書き込みは、いま自分が住んでいる地域を「好きになる」か「好きになれないか」は、「自分次第だ」という当たり前の結論でした。
しかし、それは「都心に通勤している人」に限られている評価基準でしょう。車通勤の人や、飯能市内からあまり出ない人にとってはあまり魅力のある評価基準ではないのかもしれません。
もし、西武鉄道の事情によって、飯能駅が始発駅ではなくなったら、それが理由で飯能市から転出してしまう人は少なくないでしょう。私も、毎日都内に通勤していたら、やはり「他の始発駅」の地域に転居するかもしれません。
しかし、いまの私は「毎朝ラッシュ時に通勤する」ことは無いので、仮に、飯能駅が始発駅でなくなったとしても、もう飯能市から転出しようとは思いません。私の中で「地域の評価基準」が変わったからです。
いまの私は飯能の「里山」「清流」「茶畑」「古い民家」などに魅力を感じていますが、都心に通勤している時は、それらのことは実際には殆ど知らなかったのです。市内を殆ど歩かなかったので、それらの自然に触れる機会が無かったからでしょう。
飯能市内からあまり出ない人にとっては「市内に魅力的な大型商業施設が在る」ことは「地域の評価基準」の中では重要なポイントでしょう。しかし、仕事や遊びで頻繁に都心に出ている人にとっては、「市内に魅力的な大型商業施設が在る」ことは「地域の評価基準」としてはどうでもいいことです。「無くても有ってもどちらでもいい」程度のものです。
ですから、「市内に新たな大型商業施設ができる」ことに反対はしませんし、丸広東飯能店が閉店することを「不便になった」とも思いません。市内の299号沿いに「道の駅」のような商業施設が開業するのは嬉しいですが、それは「自分の買い物」のためではなく、それによって飯能市の知名度が少しでも向上するのが嬉しいだけです。
私は映画が大好きです。レンタルビデオではなく映画館で観る映画が大好きなのです。当Blogの「編集人プロフィール」の<最近映画館で観たお薦め映画>を読んで頂くと分かるように、ユナイテッドシネマ入間にはかなり頻繁に行っています。
だからと言って「飯能にもシネマコンプレックスが在ればいいのに」とは思いません。「映画を観に行く」のは好きですが、「映画館の側に住みたい」とは思わないからです。いまの飯能市にシネコンが無くても、いずれ入間市と合併すれば「我が地域にも映画館は在る」という状態にはなるでしょう。
他の地域から飯能市に転入して来たという人とたまに知り合いますが、「子供を自由の森学園に通学させるために飯能に越して来た」という家族が意外とたくさんいます。こういう家族にとっては「通わせたい学校の有無」は、重要な「地域の評価基準」なのでしょう。
しかし、そういう家族の中には「子供が自由の森学園を卒業したら飯能から転出する」という一家と、「子供が自由の森学園を卒業してもそのまま飯能に住み続ける」ことになる一家もいます。飯能に住んでいるうちに「飯能に住んでいることの良さ」が実感できたからでしょう。
これからどこに住もうか?
そう考える時の判断基準の一つに「その地域に有るもの」と「その地域には無いもの」の比較もあるでしょう。
私は、駿河台大学で仕事をしているわけではないし、大学に通う子供もいないので「飯能に駿河台大学が在る」ことが「飯能に住んでいて良かった」ことの評価基準にはなっていません。
しかし、「森林文化都市大学」というものが開校したら掲げるであろう「建学の理念」や、建造されるであろう「地元の木材で出来た校舎」に魅力を感じているので、もし、他の地域で、その「森林文化都市大学」が実現したら、飯能を出てその地域に移転してしまうかもしれません。
でも、いまのところ、私は飯能が一番住みたい地域で、ここから転出したくはありません。「森林文化都市大学」ができるのなら飯能にできて欲しいと思っています。だから、自分から「飯能市に森林文化都市大学を創設しよう」など夢のような戯言を当Blogに書いているのかもしれません。
自分が好きで住んでいる地域に、これからも住み続けようと願っているのなら、「我が地域にこんなものが欲しい」というものがあれば、その実現に自分が関わればいいのです。「我が地域はこうなって欲しい」というものがあるなら、自分からそうなるようにしていけばいいのでしょう。
きょうの書き込みは、いま自分が住んでいる地域を「好きになる」か「好きになれないか」は、「自分次第だ」という当たり前の結論でした。
