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▲飯能から日本を変える▲ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.1                                                                         市議も市長も「軽視」されている飯能
    
「●●から日本を変える!」という定型句のスローガンが有ります。

「宮崎から日本を変える」というスローガンで、新しい宮城県知事が誕生しました。

私が「飯能から日本を変える」ということを叫ぶと、多くの人は
「やっぱり小久保は市長選に立候補する気なのだ・・・・」と思うでしょう。

【よくある質問(FAQ)】にも書いていますが、いかなる選挙でも私が立候補することは絶対にありません。

理由は簡単です。政治家が嫌いだからです。尊敬する政治家がいないからです。後援会の人たちや所属政党に拘束されたくないからです。

私に限らず、「自由に生きる」こと、「自分のライフワークを探求したい」と思っている人は、自分の人生においては「選挙に立候補する」という選択肢は無いのです。

「政治家にならなければ日本を変えられない」というのは間違った認識です。

いまは「政治家になったら本当の影響力は発揮できない」時代なのです。
私は、一個人として「日本を変えたい」と思っています。

そのためには「どうする」ことが必要なのでしょうか?

何よりも「飯能から日本を変える」ことなのです。
そのためには、まず「自分から飯能を変える」ことだと思っています。

市会議員にならなくても、市長にならなくても、飯能を変えることは可能です。

イヤ、むしろ、市会議員になってしまったら、実は、そのことだけで、本当の影響力を発揮できなくなってしまうのです。

飯能市議会が飯能を変えられない理由は単純なことです。

飯能市役所の職員の大部分は市会議員を軽視しているからです。
法律で定められているから「形式的に市議会を置いている」だけのことなのです。

法律で定められているから、市議会の議決や承認を得るために、「議員として形式的な扱い」をしているだけで、市職員が市会議員に判断を求めることはありません。

ましてや、市会議員に「教えてもらおう」とか「指導を受けたい」と思っているような市職員はほとんどいないと確信しています。

なぜなら、市会議員は「議会での採決要員」でしかないのであって、指導者でも、リーダーでも、行政の専門家でもなんでもないからです。


いまの市長も飯能市を変えることは難しいでしょう。
その理由も単純なことです。

飯能市役所の職員の大部分は市長をも軽視しているからです。
法律で定められているから「形式的に市長として扱っている」だけのことなのです。

市長に「教えてもらおう」とか「指導を受けたい」と思っているような市職員もほとんどいないと確信しています。

なぜなら、市長とは「単に選挙で対立候補に勝って当選しただけの人」であって、けっして職員の指導者でも、リーダーでもないからなのです。

ましてや行政の専門家でもなんでもないからです。

安部前総理が挫折したのは、党派を超えて、殆どの国会議員が、内心では安部さんを軽視していたからです。

福田総理も「軽視されている」のは同じですから、「日本を変える」ことどころか「国会を変える」ことも、自民党を変えることもできないでしょう。

小泉元総理が多少は「日本を変える」ことができたのは「小泉さんを軽視する人」より「小泉さんに期待する人」が多かったからです。

いま、私だけではなく、日本人の大部分は、国会議員を軽視しています。
都道府県議会の議員などは、軽視というよりは無視なのかもしれません。

市会議員は身近にいるので「親しみ」を感じる人もいますが、それでも「親しい」からといって「政治家として尊敬している」わけではありません。

だから、私は「絶対に立候補することはない」と断言できるのです。

いま私は市議にならなくても飯能を変える方法を試行錯誤しています。
市長にならなくても飯能を変える方法を、多くの人たちに伝えていきたいと思っています。

これが、私が当ブログ「飯能どうする研究所」を続けている本当の理由なのです。


       

| 小久保 達 | 00:13 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
▲飯能から日本を変える▲ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.2                                                                           飯能を変えるには「いまから」、「ここから」、「自分から」
      
「飯能から日本を変える」には、飯能に住んでいる多くの人たちが「自分から飯能を変える」ことに取り組まなければ、他人をとやかく批判することはできません。

「自分から飯能を変える」には、まず、「自分自身がいまから変わる」必要が有るのでしょう。

私は、相田みつを「いまから、ここから」という言葉が大好きでした。

その言葉を真似して、私は「いまから、ここから、自分から」ということを、いつも自分自身に言い聞かせています。
           (私の五行歌集サイト・日本を変える“最初の一手”)

TBSラジオの人生相談でアドバイスをしているTさんは、よく
「他人と過去は変えられない、自分と未来なら変えられる」ということを指摘します。

私も意識して自分を変えてきました。

その時々で「やろうか?」「どうしようか?」と逡巡する私の背中を押したのが、この「「いまから、ここから、自分から」という言葉だったのです。
次回から、私が飯能で、「飯能を変える」ために「自分から」始めたことを振り返ってみることにします。

私は「考えてから走り出す」タイプではありません。

「考えながら走り出す」タイプでもありません。

子供の頃から「考え出した瞬間に走り出してしまう」タイプだったのです。

もちろん、このタイプの人間は「成功したこと」よりも「失敗したこと」のほうが圧倒的に多いものです。

それが判っていても、いまだに「考えると同時に走り出し」 そして「後悔しながらも走り続ける」人生なのです。

子供の頃、私が周囲の人たちから得ていた評価は「飽きっぽい」「すぐ止める」だったのですが、いつのまにか「こだわっていることはやり続ける」人間に変わっていました。

そんな私に、地域活動で最初に知り合ったAさんが、言ってくれた「小久保さんはくじけないですねぇ」という言葉が、いまでも私には何よりの「誉め言葉」として心に刻まれています。




| 小久保 達 | 21:07 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
★飯能から日本を変える★ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.3                                                                         自分の関心を地域に向けるには「地元での友人知人を増やす」ことです
                           
30代、40代で「自宅には寝に帰るだけ」という人の多くは
「地域活動を無視している人」が多いものです。

中には「地元にしか友人知人がいないのは交際範囲や行動範囲の狭い人」と蔑視している人もいるのです(実は40代前後のときの私もそうでしたが・・・・)

私は、それまでは休日も飯能市内で過ごすことはなく、ほとんどわざわざ飯能から都内に出て行って過ごしていたくらいでした。      

私が飯能で最初に自分を変えたことは「飯能市内で知人を増やそう!」と思ったことでした。

当時の私は、もうすでに「飯能市に永住しよう」という気持ちになっていたので、「自分も地域のまちづくりに参画したい!」と思っていたのですが、
「どうすれば、自分がそういうまちづくりのグループに入れるのか?」
ということも判らなかったのです。

33才で飯能市に転居してきた私は、自宅には「寝に帰るだけ」で、48才になるまで、市内に知人は2人しかいませんでした。

それは、私が飯能に越して来てから、私の家に遊びに来て飯能を気に入り転居してきた幼なじみと、市内のいきつけの喫茶店で知り合った呉服屋の若旦那だけ。

飯能祭りの時も、毎年ただ見物客としてふらふら雑踏の中を歩いているだけで、各町内の山車の綱を引いている人たちを見ても「どうすれば自分もあの中に入れるのだろうか?」と考えていたのです。

「飯能に越してきて良かった!」と思っているのに、地域に友人知人が少ないのでは、住んでいても楽しくありません。

私の拙い経験ですが「住んでいる地域を好きではない」という人の大部分は「そこに親しい人、好きな人がいない」からなのです。

その事実に気づいて「地域で友人を作ろう」と意識しましたが、中年男が、見ず知らずの人に「私と友達になりませんか?」と言い出したら「気持ち悪がられる」だけです。

市内の人と自然に知り合うにはどうすればいいのか?」

そこで私が考えたのは「広報はんのう」のイベント情報をチェックして、「講座」とか「教室」を受講してみることでした。

しかし、一日だけの単発の、しかも「話を聞いているだけの講座を受講しても「参加者同士が知り合いになれることはない」ことを痛感させられるだけだったのです。

そこで「連続して長期間続けられていくもの」「参加者同士が議論したり意見交換をする講座」であれば、3回、4回と言葉を交わすうちに「知り合いになれるのでは・・・・」と思って、申し込んだのが、飯能市役所の当時の企画調整課が公募していた「平成10年度まちづくり市民会議」だったのです。

そこで地元生まれのAさんと知り合い、そのAさんから市内の多くの人たちと知り合う機会を得られたのです。



| 小久保 達 | 10:16 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
★飯能から日本を変える★ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.4                                                                    『飯能いつどこ情報源』の開設は「飯能を変える」というよりは「自分を変えた!」
   
「地域で友人知人を増やしていく」ことの次に、「自分を変えた」のは、
2000年に地域情報サイト『飯能いつどこ情報源』を始めたことでした。

当時の私は、地域活動でいくつかのイベントを開催してみて、そのPRの難しさから地域情報サイトの必要性を痛感していたからです。

「地域のイベント情報を満載しているサイトが有ればなぁ・・・・・」
「地域でインターネットに接続できる人の殆どが必ずチェックするイベント情報サイトがあれば、告知も楽なのになぁ・・・・・」
「誰か、そんなサイトを開設してくれないかなぁ・・・・」


しかし、そのサイトを自分で開設する気はまったく有りませんでした。

なぜなら
「地域サイトの運営に手を出したら膨大な時間が奪われる」
ということが判っていたからです。

だから、いつも「市内の誰かがやってくれる」ことを期待していたのです。

しかし、ここでも、私を動かしたのが
「いまから、ここから、自分から」という言葉でした。

「自分が他人に期待している地域サイトが誰も始めないのであれば自分で始めるしかない」と覚悟を決めて、『飯能いつどこ情報源』を開設したのです。

現時点での報告をすれば
「“いつどこ”の運営に取られた時間は、当初想定した範囲をはるかに超える」ものでしたが、逆に、
「“いつどこ”の運営を続けていることで得られたものは期待していたものの10%も無い」のが現状です。

それでいて
「自分の仕事への障害は想像していたよりもはるかに大きかった」のです。

だから、私は、いつも
「“いつどこ”を止めよう!」「いつ止めようか?」「どうやって止めようか」を考え続けて今日まで来てしまいました。

『飯能いつどこ情報源』のアクセスも、開設前に期待していた数値の10%以下です。

ならば、すぐにでもサイトを閉じてしまえばいいのですが、
そう考え始めると、今度は逆に
「せっかくいままで続けて来たのに勿体ない」という“損得勘定”が芽生えてくるのです。

当面は、こうやって「続けようか・・・・」「いや、もう止めようか・・・・」という迷いをいつまでも堂々巡りを繰り返していくのかもしれません。

いまの私の正直な心境は
「“いつどこ”よりもイベント情報を豊富に掲載している地域サイトが出現したら、すぐにでも止めよう!」というところです。

「地域情報サイトができたら飯能も変わるのではないだろうか・・・・」と思って始めた『飯能いつどこ情報源』ですが、どうやら、これで変わったのは私自身だったようです。


| 小久保 達 | 10:58 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
★飯能から日本を変える★ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.5                                                                       「好きなコト」だから続けられる → 「続ける」から定着する  → 「定着」すれば、やがていつかは・・・・・
          
「地域で友人知人を増やしていく」こと
「地域情報サイト『飯能いつどこ情報源』を始めた」こと
の次に、「自分を変えた」のは、
2000年10月から「有望若手応援寄席」を始めたことでした。

当時の私は、すでに、都内・日本橋でレストランを経営する知人を手伝って、
柳家三三入船亭扇辰春風亭朝之助(いまは6代目柳朝を襲名)という若手落語家3人のそれぞれの独演会を、その2000年の3月から始めていました。

<レストランの集客イベントのテストケース>として始めて、なんとか定着したので、「この落語会を飯能でもやってみたいなぁ」と思ったのです。

そこで、落語会の開催に向けて動き出す前に私が考えたのは下記のコトでした。

「一人では始めない。必ず地域の人、何人かと協同して主催する」
「その一緒に主催する人をどうやって誘おうか?」
「年に数回ではなく、とにかく毎月定期的に開催していく」
「会場は地元の人がよく知っている飲食店にする」


落語会を主催する人は、当然、私と同じように「落語好き」に限ります。
しかも、
「お客さんで聴きに行くよりも自分で落語家を選んで主催してみたい」
という人に限られるのです。

もともと、市内に「知り合い」がいない私でしたが、Aさんや、その後知り合った同い年のYさんの紹介で、「知り合い」程度の人は徐々に増えていました。

しかし、その人たちが「落語会を主催したいと思っているほどの落語好き」かどうかは判りません。

そんな人を探していた2000年7月に、名栗村で地元の人たちが主催した落語会を聴きに行く機会が有ったのです。

なんと、当日になって出演者の都合で交代があり、私が飯能でも独演会をやりたいと思っていた柳家三三が偶然、出演することになったのです。

すかさず、私は、会場内に居た知人の何人かに開演前に声をかけてみました。

「これから出演する柳家三三は若いのに凄い噺家で、いま、日本橋で彼の独演会をやってるンですが、飯能でもやりたいと思っています。もし、きょう柳家三三の落語を聴いて、この噺家を応援しよう、という気持ちになったら、飯能で彼の独演会を私と一緒に定期的に開きませんか?」

Yさんの紹介で知り合ったKさんが、幸いにも、その日に
「三三さんはいいねぇ、飯能でもやろうよ!」と言ってくれたのです。

そのKさんと話し合って、とりあえず10月から始めることにして、さっそく「会場探し」に取りかかりました。

できれば、その「会場」は飲食店にしたいと思っていました。

なぜなら、飲食店で「食事込みの落語会」を開催すれば、その店の店主も集客に協力してくれるからです。

日本橋で落語会をやっていたレストランでは、落語の後は、出演した落語家を囲んでの飲食も設定していたのです。(当時は食事込みで4000円)

柳家三三独演会は、Kさんの紹介で飯能河原の櫟庵に、春風亭朝之助の独演会は、Aさんの紹介で知り合った市役所そばのマハロの和室に決まりました。

とりあえず、その2回の開催を決めて、「有望若手応援寄席・飯能」をスタートすることにしました。

さらに、幸運にも、12月に原町の広渡寺で開かれた飲食つきのコンサートで偶然、同じテーブルになった、近くのIさんが、
「所有している蔵を改造して蕎麦屋を開店する」
「落語は若い頃から好きで古いテープをたくさん持っている」
ということを知ったのです。

そこで、柳家三三、春風亭朝之助に加えて、入船亭扇辰の独演会をやりたいと考えていた私は、Iさんに、
「新しく開店する蕎麦屋で入船亭扇辰の独演会を3ヶ月毎に開催しませんか」と持ちかけてみました。

地域寄席を継続させる基本は、「自分の大好きな落語家に限定すること」です。

Iさんは、入船亭扇辰を知らないので、
数日後に都内で予定されていた、彼が出演する落語会に一緒に行く約束をしました。

結果としては、Iさんは、入船亭扇辰を気に入って、「有望若手応援寄席」の主催者に加わってくれることになりました。

いま、その「有望若手応援寄席」は、今月27日の古今亭菊之丞独演会で通算86回目になります。

第1回目の入場者は、地元生まれのKさんのネットワークのお陰で50人も集まり、出だしとしては大成功でした。

しかし、その後は、20人台の時もあり、累積赤字は増えるばかりで、最高で50万円ほどにまで膨れましたが、最近は来場者が100人を超えることが続いているのでやっと黒字になり、累積した赤字も徐々に減ってきています。

私としては、大好きな若手の落語家に飯能まで来てもらって、間近に落語が聴けて、それで打ち上げと称した呑み会にも付き合ってもらえるのですから、毎回の赤字も「粋な遊び」にしては安い出費だと思えたからこそ、今日まで続けて来られたのだと思います。

私が、いままで地元で関わってきたイベントや会合、勉強会などの活動は、いまも続いているモノもあれば、途中で立ち消えになってしまったものもあります。

私が、この「有望若手応援寄席」を主催して、実感したのは
「好きでもないことを無理に始めても続かない」ということと
「自分が楽しんでやっていれば結果として続いていく」ということです。

次回は、もう一つ「続けているコト」について書き、
それから「これから始めたい」コトについて書いていく予定です。




| 小久保 達 | 20:30 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
★飯能から日本を変える★ ⇒ 【自分から飯能を変える】No.6                                                                               「飯能をどうする?」から「飯能でどうする?」へ
            
「もしかしたら飯能が変わるキッカケになることがあるかもしれない・・・・」と思って始めたのが、当ブログでした。

「飯能どうする研究所」というネーミングにしたのは、「飯能いつどこ」という言葉と同じように、 「飯能どうする?という言葉も定着すればいいなぁ」
と思ったからです。


飯能に限らずどの地域でも、住民の大多数は、「住んでいる地域が好き」でしょう。

しかし、「好きではあるが、住んでいることを誇れるか?」と問われれば、
「胸を張って、誇れる街だ!」とは言えない、という人が多いのではないでしょうか。

どの地域でも「目指すべき姿」「目指すべきこと」を
「一言で表現するキャッチコピー」を工夫しようとします。

「美しいまち」とか「安全なまち」とか、「優しいまち」や「明るいまち」
「愛せるまち」「躍動的なまち」・・・・・など、表現する言葉は無数にあります。

私自身は、「日本が目指すのは、誇れる国だ」と考えていたので、
自分で住んでいる飯能も「住んでいることが誇れる街」が、目指すべき方向なのだ、と思っていました。

そこで、当ブログのキャッチコピーを
「住んでいることを誇れるまち・飯能」という表現にしたのです。

では、どういうことが地域として誇れるコトなのでしょうか?

それは、いままでに書き込んだ
★飯能が目指す方向★という大項目の中にある
【飯能を誇れる自治体に!】という中項目の書込(7件)を参照して下さい。

さらに「住んでいる地域の理想的な姿」を
【飯能で描く「10の理想」】という中項目で「7つめの理想」まで書いてみました。

しかし、8番目の理想、9番目の理想、10番目の理想は、まだ考えがまとまっていません。これから地域の人たちとのおしゃべりや意見交換を重ねていくうちに考えつくことを楽しみにしています。

「地域としての10の理想が実現されている」のであれば、もう、それは、誰に対しても胸を張って「住んでいることを誇れるまち」と確信をもって断言することができるでしょう。

当然、「理想」を実現するためには、困難なコト、不可能と諦めていたようなコトにも、積極的に挑戦していかなければなりません。

それを「10の理想を実現するために試みたい100の挑戦」
そして「100の挑戦を成功させるために必要な1000の実験」
さらに「1000の実験効果を高めるための10000のアイデア」
というようにまとめていこうと思っています。

ところがこのブログ「飯能どうする研究所」も、「飯能を変える」ということよりも、「自分を変える」ことになっていったのです。

なぜなら、10の理想、100の挑戦、10000のアイデアに対して
「自分が、この飯能どうするか?」ということが問われるからです。



| 小久保 達 | 14:57 | comments (0) | trackback (0) | ★飯能から日本を面白く!★::自分も飯能を面白くしたい! |
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みなさんからのコメント
  • ★2017年7月の市長選★ ⇒【現職と新人の出馬動向】No.11       前県議の和田さんはブログで「共産党の候補者擁立は、笑止千万、究極のパフォーマンス!」と断定しているのですが・・・・。
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