2012-11-15 Thu
きょう(11/15)の文化新聞1面に、日高市の横田八郎さんという人が書いた『茶業界の先駆者 高林謙三』が載っています。①と書かれているので、これから何回かに渡って掲載されるようです。
高林謙三は、天保3年(1832年)4月、現在の日高市大字平沢中組、当時の武蔵国高麗郡平沢村の旧家の農家に生まれた。父の名は小久保忠吾、母の名をきくという。
私と同じ「小久保姓」なので10年ほど前から興味がありました。私の父親は比企郡川島町の出身ですが、父親の実家を継いでいる従兄から「我が一族のルーツは日高らしい」と聴いていたからです。
(謙三は)25歳の時、安政3年(1856年)の春、川越の小仙波の岩沢方に医院を開業した。同年浜子と結婚、この時小久保姓を高林に改めた。その理由は明らかでない。
私としては、そこが知りたいのです。
普通に考えれば、結婚した浜子が「小久保姓」で、その家に婿入りしたか、それとも浜子と二人で、高林家に夫婦養子になったのかと想像できます。
しかし、そんな程度の理由なら、「明らかにならない」ような難しいことではないでしょう。高林という人から「何らかの援助を受けた」のか、それとも「小久保姓を名乗りたくない」事情があったのかも・・・・・。
(531字)
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2012-11-16 Fri
きょう(11/16)の文化新聞1面にも、『茶業界の先駆者 高林謙三』が載っていますが、②で「終わり」でした。
紙面に掲載する前から「2回」と判っていたのであれば「①②」ではなく「上・下」と記載しておいて欲しいものです。続き物でも「3回」であれば、表記は「上中下」です。
だから「初回」で「①」と表記されていたら、当然「①②③④・・・・・」というように、最低でも4回以上は続くのだろうと期待してしまいました。
江戸時代も終わりを告げ、明治開国の波は地方にも押し寄せ、外国の文物、制度等欧米化を目指し、わが国からの輸出は僅かに生糸と製茶を主とする2品目に過ぎず、その量も微々たるものであった。
貿易の均衡を失うに至るは必至と当時の識者は国の前途を憂えた。謙三はこれを救う道は産業を興し輸出を盛んにする外はないと考え、「余自今人を医すること改めて国を医する道を講ぜんや」と決意、盛況な医院閉じたのである。
せっかく苦学をして医者になったのに、「人を医する」ことより、「国を医する」ことに情熱を傾けたいと謙三が思った背景には、当時、それなりの人たちとの交流や見聞があったからなのだと考えますが、「どういう人たちと交流していたのか?」、「どこでどのような見聞をしたのか?」「医院を閉じることに周囲の人たちはどのような反応をしたのか?」ということに興味が湧いているのですが、それを知る史料が有るのであれば、ぜひ読んでみたいものです。
明治2年(1869年)中谷部落の荒地四町歩を買い求めて開拓、茶樹の栽培に着手専念した。
謙三が医院を閉じてまで、なぜお茶の栽培に着手したのか? そこが興味の的なのですが、その詳細は判りません。
ドラマ仕立てならば「推測」や「脚色」「創作」で、その部分を「楽しく観られる」ようにできるかもしれませんね。
誰か書いてくれないものでしょうか?
(785字)
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2012-11-20 Tue
きょう(11/20)の文化新聞1面に、意外なことに、『茶業界の先駆者 高林謙三』③が載っていました。
(訂正 16日付け2回目で文末「終わり」とあるのは誤りです)と書かれていました。
でも、きょうの③で本当に「終わり」のようです。
こうして明治17年(1884年)、念願の製茶機械の製作に成功した。実に7年間を要したのである。謙三、52歳の時である。
謙三が、医者を廃業して、お茶の栽培にのめりこんでいった経緯や、栽培農家から、製茶機械の発明製造に乗り出した経緯には、多くの出来事があったはずです。製茶機械を自らの手で発明しようと奮起し、試行錯誤をへて完成させていく経緯にも様々な苦労や工夫があったはずです。
この辺りをもっと調査し、あるいは想像を深めれば、面白いドラマにできるのではないでしょうか。
明治18年(1885年)8月14日、製茶機(茶葉蒸機)の考案が認められて、日本専売特許制度の発足により、特許第2号を得たのである。
この<日本専売特許制度>というのが、現在の特許制度とどのような関連性があるのか知りませんが、<第2号>ということに着目すれば、日本に特許制度が誕生した経緯も知りたいところです。謙三がその特許申請をしたということは、<特許>ということのメリットを十分理解していたと思われるからです。
同年10月には唐箕用扇風機、翌19年には茶葉揉捻機(もみとひねり)、蒸機に搓揉機(よりともみ)と揉捻機(もみとひねり)とを組み合わせて製茶工程の一連化の基礎をつくりあげ、「自立軒製茶機械」と称して実演、その性能を全国に広めていった。
謙三が自ら発明した製茶機を普及させるために、全国のお茶産地を巡っていくというのも、ドラマとしては面白いものになりそうですね。
(743字)
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(訂正 16日付け2回目で文末「終わり」とあるのは誤りです)と書かれていました。
でも、きょうの③で本当に「終わり」のようです。
こうして明治17年(1884年)、念願の製茶機械の製作に成功した。実に7年間を要したのである。謙三、52歳の時である。
謙三が、医者を廃業して、お茶の栽培にのめりこんでいった経緯や、栽培農家から、製茶機械の発明製造に乗り出した経緯には、多くの出来事があったはずです。製茶機械を自らの手で発明しようと奮起し、試行錯誤をへて完成させていく経緯にも様々な苦労や工夫があったはずです。
この辺りをもっと調査し、あるいは想像を深めれば、面白いドラマにできるのではないでしょうか。
明治18年(1885年)8月14日、製茶機(茶葉蒸機)の考案が認められて、日本専売特許制度の発足により、特許第2号を得たのである。
この<日本専売特許制度>というのが、現在の特許制度とどのような関連性があるのか知りませんが、<第2号>ということに着目すれば、日本に特許制度が誕生した経緯も知りたいところです。謙三がその特許申請をしたということは、<特許>ということのメリットを十分理解していたと思われるからです。
同年10月には唐箕用扇風機、翌19年には茶葉揉捻機(もみとひねり)、蒸機に搓揉機(よりともみ)と揉捻機(もみとひねり)とを組み合わせて製茶工程の一連化の基礎をつくりあげ、「自立軒製茶機械」と称して実演、その性能を全国に広めていった。
謙三が自ら発明した製茶機を普及させるために、全国のお茶産地を巡っていくというのも、ドラマとしては面白いものになりそうですね。
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2019-07-13 Sat
7月11日の文化新聞に高林謙三に関する記事が載っていたので
【製茶機発明家・高林謙三も渋沢栄一と共に「NHK大河ドラマ」に!】という小見出しで、7月11日に、facebook飯能会に投稿してみました。
紙面の写真も載せているので、興味の有る方はクリックして読んでみて下さい。
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