2009-04-20 Mon
私は「選挙」が大好きです。
といっても、私自身が何かの選挙に立候補するのは「嫌い」で「選挙に出るくらいなら死んだほうがましだ!」と本気で思っている人間です。
私が好きなのは、「選挙」というよりも「選挙制度」そのものが好きなのです。
その中でも、私は原点の「選挙権」そのものに一番関心を注いでいます。
いまは市議選の真っ最中なので「選挙権」の意味を浮き彫りにしてくれる「投票率」について考えてみました。
私は「棄権=権利の放棄」と位置づけています。
だから、「選挙で棄権した人」は、その棄権した選挙で当選した首長や議員を批判する権利も、何かを要望する権利も放棄したものと見なすべきであるという「見解」です。
そのような見解が認められた社会は下記のようなものになっていきます。
Aさんが市役所に「市政に対する不満・要望」を訴えに行くと、窓口では、すぐに「台帳」と照合して、Aさんが、直近の選挙で「投票所に行ったかどうかを確認します。
そして「このAさんは行っていない」ということが判明すると、「あなたは市政に対する一切の権利を放棄しているので、市政に対して不満や要望や述べることはできません」と告げられます。
そこでAさんがどいのような抗議をしようと「自分で権利を放棄したのですから、市役所にはあなたの抗議や意見を聴く義務はありません!」と追い返されてしまいます。
私自身は、本気で、「これで良い」と思っています。
だから、私は「市議選の投票率30%」という数字を見ると「市議や市議会の対する一切の権利を放棄した人が有権者の70%も居る」というように認識してしまいます。
私の中には「棄権=白紙委任」と位置づけてもいいのではないか?という考えも芽生えています。
すると「市議選の投票率30%」という数字は、「どんな人が市議に選ばれても、どのような人たちで市議会が構成されていようと、その市議会で何を採決されようと、すべてそれに従います」ということを表明した人が有権者の70%も居る」というように認識することになります。
「棄権=白紙委任」という考えに立つと「投票率が低いほど国民が満足している何よりの証拠」ということになります。
つまり「投票率が低いほど良い国」ということになります。
したがって、選挙管理委員会の役割は「選挙が公正に実施されること」だけであっても、「投票率を上げる」ことは「選管の仕事ではない」ということになります。
いま、日本では「投票率の持つ意味」について、明確な見解や信念が語られることが極めて少なくなっています。
特に驚くことは、「投票率の変化」に最も影響される「選挙の立候補者」自身が投票率の上下については関心を持っている割りには、その「投票率を上げる」ことは「自分の役割ではない」と思っていることです。
その証拠は、いま、市内のどこに居ても、すぐに確認できます。
今回の市議選の立候補者23人の「訴え」とやらに耳を傾けてみて下さい。
「私に投票して下さい」という主旨のことを言うばかりで、「私に投票しなくてもいいからとにかく棄権だけはしないで下さい」という主旨のことを言う候補者が、果たして何人いるでしょうか?
もうしばらくすると各戸に配布される「選挙公報」を読んでみて下さい。
そこに「棄権しないで!」「とにかく投票所に行って!」という主旨のことを書いている候補者が果たして何人いるでしょうか?
おそらく「一人もいない」と思います。
だから、投票率が低くなるのだと私は思っています。
次回は本日(4/20)18:00頃に掲載します。